zushi volutary guide club        


前回のコース & 思い出のコース
令和2年(2020
年)

2月19日(水)

田浦の梅花に誘われて

 日 時 2020年 2月19日(水)10時〜

 集 合 田浦駅 (JR) 

 コース JR田浦集合〜田浦梅の里〜

   展望台〜青少年自然の家〜十三峠〜

   塚山公園〜鹿島神宮?浄土寺

     (解散)?逸見駅orJR横須賀駅       

     ガイド:石井 橋本 

     資料作成:橋本 

今月のルートマップ

横須賀港を望む 田浦梅林水仙ロード
展望台より横須賀港を望む 田浦梅林満開の梅
塚山公園の花壇 三浦按針夫婦の墓
 今回は花の盛りの田浦梅園から安針塚までを歩きました。寒くなく暑くなく絶好のお天気に恵まれ、楽しい花見ができました。

 最後に、三浦按針菩提寺、浄土寺の住職、逸見道郎師から三浦按針と浄土寺の関りなどについて小一時間に渡り講話を拝聴しました。

 江戸の初めウィリアム・アダムス(三浦按針)イギリス人の航海士は、オランダ船団に加わって東洋貿易のための遠洋航海にでました。5隻の船団はマゼラン海峡を越え、太平洋を渡るうちリーフデ号1隻のみとなり、命からがら大分県臼杵(うすき)の海岸にたどり着きました。あたかも幽霊船のようであったと言われました。このリーフデ号が豊後の臼杵に漂着したのが1600年(慶長5年)のことです。 家康から洋式帆船建造の命を受け、伊東で帆船造りを開始します、船の他にも、オランダやイギリスの平戸商館設立など、幕府の海外貿易振興に尽力したとのことです。

 1605年(慶長10年)、家康はアダムスの功績に対し、三浦郡逸見に領地250石と刀2本、脇差を下賜した上、三浦按針という名を与えたということです。

 ペリー来航の250年程前のことです。その時代からイギリスやオランダは大航海時代終盤を迎え、世界の果てまで旅をしていたのですね。

 中国で発生した新型コロナウィルスによる肺炎が流行っています。次回3月は実施が難しいかもしれません。皆様くれぐれも用心してお過ごし下さい。

鹿島神社 塚山公園を後に
浄土寺本堂での住職の講話 浄土寺本堂

令和2年(2020年)

1月8日(水)

新春恒例 鎌倉七福神巡り

 日 時 2020年 1月 8日(水)10時〜

 集 合 北鎌倉駅 (JR) 

 コース JR北鎌倉集合〜浄智寺〜鎌倉

   八幡宮(旗上弁財天社)〜宝戒寺〜

   妙隆寺〜本覚寺〜御霊神社〜長谷寺

                (解散)

     ガイド: 伊藤 山崎 

     資料作成:山崎 

今月のルートマップ

浄智寺 浄智寺
宝戒寺 山門

鎌倉八幡宮(旗上弁財天社)

 

  今回の七福神巡りは、天気予報もあまり良くなく、いまいち集まりも悪いようでしたが、昼前には晴れるという予報を信じて決行しました。しかし降り出しが遅れたためかスタートごろから雨が降り出し、結局昼ごろまで降ったりやんだりの雨模様が続きました。

 大町会館での昼食近くになって陽の射す天気となり、気温も上がってきました。雨の日の食事どころとして確保していた会館が、今回ばかりは大変ありがたみを感じました。 会館で食事と休憩を取り、お昼からは日差しを浴びながらの温かい七福神巡りができました。

 欲を言えばもう少し雨の降りだしが早く、明け方には上がっていてくれれば、一日暖かい日差しの中でのお参りができたのにと、雨の神様を恨めしく感じた一日でした。

 もともと参加者が少なかったのですが、参加された方々はほとんどの方が、雨にもかかわらず完走され、その熱心さには大変感動し、主催側としてはとてもありがたく感じた一日でした

本覚寺
御霊神社
長谷寺
長谷寺 休憩所から由比ガ浜を望

令和元年(2019年)

12月18日(水)

桜木町から汽車道通って

日 時 2019年 12月 18日(水)10時〜

 集 合 桜木町駅 (JR) 北口

 コース R桜木町駅北改札口東側出口〜

  ドックヤードガーデン→日本丸メモリ

  アルパーク〜汽車道〜サークルウォーク

  〜ジャイカ移民記念館〜北朝鮮工作船〜

  赤レンガ倉庫(昼食)〜横浜税関〜開港

  記念館〜開港資料館前解散

    ガイド: 西崎 山中 

    資料作成:山中  

今月のルートマップ

ドックヤードガーデン
桜木町駅北改札口東側出口
桜汽車
サークルウォーク
北朝鮮工作船 ジャイカ移民記念館
 今月は年の最後の例会であり、終了後希望者による交流会が行われました。今年一年を通じてご参加常連の方、今回初めてご参加の方等の皆さんが集まり、中華街での食事とアルコールとおしゃべりで、楽しい交流の一時を過ごしました。ちょっと体の温まった帰りに寄り道した港の夜景が、また何ともいえず美しいものでした。

 横浜はよく行く街ですが、そのたびに新しい発見があります。今回神奈川県庁の屋上に上る機会を得ました。いつも遠くから見ていた屋上のタワー<キング>をまじかに見て、その大きさと堂々としたたたずまいに、圧倒されるような感じさえ受けました。又屋上から下を見ると開港記念館の(ジャック)の塔が見られました。これもしたから見るのとはだいぶ違った感じに見えました。

 見慣れた景色も見る場所、見る高さによって思いもかけない新鮮さを感じさせてくれますね。

赤レンガ倉庫

開港記念館

  記念館

交流会の帰りに寄り道
交流会

令和元年(2019年)

11月20日(水)

新と旧の町藤沢明治地区

を歩く

 時 2019年 11月 20日(水)10時〜

 集 合 辻堂駅 (JR) 北口

 コース 辻堂駅北口〜ロボ テラス

  藤沢浮世絵館〜明治市民センター

  (郷土資料室)〜小笠原東陽墓〜耕餘塾

  の跡〜御霊神社〜旧三觜八郎右衛門家

  住宅羽鳥向八坂神社〜四ツ谷八坂神社

  〜四ツ谷不動尊・大山道「一の鳥居」〜

  一里塚跡と松並木〜二ツ家稲荷神社〜

  辻堂駅北口 

   ガイド: 石井 山崎 

   資料作成:三春  

 今回の例会はいつもと趣向が変わり、藤沢市が開いている三つの展示会場を見学するという計画を立て実施しました。

 ロボテラス;ロボテラスは、2014年に「生活支援ロボット」の普及・啓発を目的して開発されました。実際にロボットを見て、触れることができる体験・展示すスペースです。そろそろ介護器具が必要となる年代には大変興味深い器機がそろっていました。自由に乗ったり押したりできるので、その便利さが実感できました。

 藤沢浮世絵館;藤沢市辻堂神台2-2-2ココテラス湘南7階にあります。市が所有する東海道五十三次・藤沢宿や江の島の浮世絵を展示する施設です。浮世絵は地域の歴史や文化を知るための情報がいっぱい詰まっています。一定期間テーマを決めて展示そしているようで、今回は波、風、帆をテーマに展示されており、北斎、広重、などさまざまな絵師が描いた波、風、帆の躍動感ある浮世絵が観賞できました。

 明治郷土資料室;明治市民センター2階にあります。東海道筋の歴史や、藤沢市明治地区の歴史・文化史料を展示しています。明治地区には歴史に裏づけされた古くからの有形無形の文化が育まれてきました。特に、明治期に羽鳥の地にあった耕餘塾は、名宰相吉田茂をはじめとし、多くの政治家・実業家・教育者を輩出し、日本の近代的発展のために多大な貢献を果たしました。

 耕餘塾の跡;明治5年(1872年)羽鳥村戸長三觜八郎右衛門は、東京から小笠原東陽を招いて郷学校(明治時代初期に民間の有志が設立した学校)の読書院を開きました。開校間もなく学制が布かれると同校は小学羽鳥学校とされますが、東陽は、明治10年、三觜家等の助力で公立小学校とは別に私立耕餘塾を開きました。明治33年に閉校するまで、政治、実業、教育の各界へ多くの人材を輩出しました。元内閣総理大臣吉田茂も同塾の卒業生です。

今月のルートマップ

  ロボテラス
  ロボテラス
  郷土資料室
上:蚕いとなみの図(歌川芳員)     下:見立七福神舟遊び(喜多川歌麿    藤沢浮世絵館   
  延小笠原東陽の墓
  耕餘塾の跡
  四ツ谷八坂神社
  御霊神社
四ツ谷不動尊と大山道一の鳥居
  二ツ家稲荷神社

令和元年(2019年)

10月16日(水)

逗子市街秋の名所散策

 日 時 2019年 10月 16日(水)10時〜

 集 合 逗子駅 (JR)

 コース JR逗子駅〜延命寺〜忠臣三浦胤

 義遺弧碑〜宗泰寺〜六代御前之墓〜蘆花

 記念公園〜野外センター〜文学記念碑

「太陽の季節」〜渚ホテル跡〜浪子不動・

 高養寺〜逗子開成高校(解散)   

   ガイド: 橋本 畑島 

   資料作成:橋本

  今月のルートマップ

  延命寺本堂
  延命寺本堂外観
  三浦胤義遺孤碑
  宗泰寺本堂前
  六代御前の墓
  蘆花記念公園
 今回は久しぶりに地元逗子の史跡巡りでした。お天気にも恵まれ、涼しさも取り戻し、秋らしい一日となりました。

 最初の延命寺さんでは住職の計らいで本堂での拝観が許され、仏像に造詣の深い元当会会長の佐野氏の薀蓄に耳を傾けました。歴史の古い延命寺には行基の延命地蔵安置や三浦道香の自刃の話などが古い歴史の跡が残っています。

 六代御前之墓:六代御前とは平高清のことで平清盛の曾孫に当たります。六代というのは幼名であり、平氏興隆の基盤を作ったとされる平正盛から数えて六代目ということから名付けられました。平氏滅亡後神護寺にはいり、僧として修業していましたが、頼朝の死後、身請け人の文覚上人が三左衛門事件に伴い流罪になると高清もつかまり、ここ逗子の田越川の畔で処刑されました。

 文学記念碑「太陽の季節」は同小説芥川賞受賞50周年を記念して、平成17年に造られました。建造に当たっては、寄付者はタイルに名前を刻み込むということで一般からも寄付を募ったようです。

  文学記念碑「太陽の季節」
  浪子不動・黄養寺

令和元年(2019年)

9月18日(水)

川崎宿と味の素川崎工場見学

 日 時 2019年 9月 18日(水)10時〜

 集 合 京急川崎駅

 コース 京急川崎駅〜旧東海道(中の本陣

  跡―問屋場跡―助郷会所跡〜東海道かわ

  さき宿交流館〜旧東海道(田中本陣跡

  ―万年屋跡―六郷の渡し)〜京急港町駅

  ―京急乗―川崎大師駅〜川崎大師

 (昼食)〜若宮八幡宮〜味の素川崎工場

 (工場見学)解散   

 ガイド: 山崎 西崎 

 資料作成:山崎

今月のルートマップ

  旧東海道   川崎の夜景
  田中本陣跡   佐藤惣之助碑
  東海道かわさき宿交流館
  六郷の渡し
  川崎大師 平間寺

 今月はスタート時には雨が降っていなかったようですが、すぐに雨が降り出し、あいにくの天気となりました。室内の見学が多かったのと、延期の場合、見学予約は数か月先でないと取れないといった事情もあり、少し無理をしましたが、雨の中を歩いていただきました。幸い昼食などは、休憩所が確保されたのでぬれずにとることができました。

 今月はホームページ担当者がお休みの為、又雨の中での写真撮影が難しく、当日の写真が撮れませんでしたので、下見の時の写真掲載となりました。行ったところの施設の写真だけとなりましたが、ご容赦願います。

 

  味の素(X)川崎工場
  金山神社

古都 鎌倉の歴史を訪ねて

日 時 2019年 7月 17日(水)10時〜

  集 合 鎌倉駅(JR)西口 

  コースJR鎌倉駅西口集合〜大功寺〜

  妙本寺〜滑川〜日蓮辻説法跡〜滑川

  〜鶴ヶ岡八幡宮(昼食)〜川喜多映画

  記念館〜岩窟不動尊〜鎌倉彫再興碑

 〜浄光明寺〜鎌倉歴史文化交流館(解散)

 ガイド:石井 西崎 

 資料作成:前島・山中

     今回のルートマップ

大功寺 朝の挨拶
妙本寺 本堂
大妙本寺 比企一族供養塔
滑川 琴弾橋
 日連上人辻説法跡地
岩窟不動尊
  

 今回のコースは夏の暑さの中を歩いても比較的涼しげな場所を選びました。妙本寺の古木の林は夏でも涼しい風が吹き抜けます。また途中の滑川沿いの道?も日影で涼しさが味わえます。又午後からは冷房の効いた歴史交流館見学ということで、ここも暑さ知らずです。 しかし、せっかく暑さ対策で組んだコースですが、今年の梅雨は長く、この日も梅雨の晴れ間といった曇り空で、夏のじりじりと焼けつくようなお天気とは無縁でした。熱中症を一番心配していましたが、おかげさまで全員無事にコースを回り終えることが出来ました。

長興山妙本寺:妙本寺のある谷戸は、現在は比企谷(ひきがやつ)と呼ばれ、鎌倉時代には比企能員(よしかず)一族の屋敷がありました。源氏と深い関係を持った比企一族ですが、頼朝の妻・北条政子の実家である北条氏とは対立するようになり、将軍の跡目争いから「比企能員の変」が起きました。一幡を押す比企一族は比企谷の谷戸(小御所)に篭って北条氏らの軍勢と戦うが敗れ、屋敷に火を放って自害したと伝わります。能員の末子・能本は生き残り、後に京都へ行き、順徳天皇に仕えます。後に許されて鎌倉に戻った能本は、1253年(建長5年)日蓮に帰依し、1260年(文応元年)能本は菩提を弔うため、日蓮に屋敷を献上し法華堂を建立しました。これが妙本寺の前身です。古木の林に囲まれた本堂は夏でも涼しさを感じさせてくれます。

 鎌倉歴史文化交流館:今回初めてこの施設を訪ねました。施設の所在地はかつて無量寺谷と呼ばれた谷戸で、鎌倉幕府の御家人安達氏ゆかりの無量寿院という大規模な寺院があったと言われています。江戸時代には刀工正宗の末裔である綱廣の屋敷があったと伝えられています。大正時代には三菱財閥の岩崎小弥太が別荘を構えていました。?

浄光明寺  鎌倉彫再興碑
 鎌倉歴史文化交流館
 鎌倉歴史文化交流館内

2017年5月15日、世界的に著名な建築家ノーマン・フォスター氏の設計事務所が手がけた個人住宅を活用してオープン。鎌倉で発掘された出土品をメインに、原始・古代から近現代に至る鎌倉の歴史を紹介しています。ジオラマ・プロジェクションマッピングやVRをはじめとする最新の映像展示、随所に施された特殊な建築資材、中世の景観を彷彿とさせる庭園、高台からの海の眺望も見どころです。

    (鎌倉歴史交流館パンフレットより)

荒崎海岸からソレイユの丘

を散策

日 時 2019年 6月 19日(水)10時〜

 集 合 三崎口駅(京浜急行) 

 コース 三崎口駅…バス…漆山〜長井寺

  〜観明寺〜荒井の道切り?熊野神社

  〜長慶寺〜住吉神社〜荒崎公園(荒崎

  城址)〜荒崎シーサイドコース〜井上

  成美記念館〜ソレイユの丘(解散)

    

 ガイド:石井 山崎 資料作成:山崎

今回のルートマップ

熊野神社 熊野神社
荒崎シーサイドコース 熊野神社

 今回は三崎口駅集合で、バスで漆山まで行き、そのあと、熊野神社からスタートし、自然豊かな荒崎シーサイドコースを歩きました。シーサイドコースはかなり険しいところもあるので、安全の為、道路回りと、海岸回りの2コースを用意し、参加されたみなさんの好みのコースを選択できるよう計画しました。

 しかし、実際には道路回りはあまり参加者がなく、ほとんどの人がシーサイドコースを選択した様です。

 岩と石、切り立った崖など、岩場の道を歩くのは大変ですが、最後まで歩いた時の達成感は、登山に通じるものがあると感じました。

 さいごの訪問先だったソレイユの丘は、ちょうど花の植え替え時期にあたり、いつものような群生する花々が見られず、残念な気がしましたが、荒崎海岸歩きを十分堪能できたので、満足できる一日となりました。

荒崎シーサイドコース 荒崎シーサイドコース
井上成美記念館 荒崎シーサイドコース

春浄智寺から深沢の

旧跡を訪ねる

日 時 2019年 5月 15日(水)10時〜

 集 合 北鎌倉駅(JR)

コース JR北鎌倉駅〜浄智寺〜天柱峰

  〜葛原岡神社〜鎌倉中央公園(昼食)

  〜東光寺〜大慶寺〜等覚寺〜御霊神社

  〜梶原景時の墓〜陣出の泣塔〜深沢    

 ガイド:伊藤 山崎 資料作成:前島

今回のルートマップ

浄智寺
天柱峰
御霊神社
日野俊基の墓
大慶寺 ビャクシン 東光寺

 今回は鎌倉の山間部にある新緑の葛原岡神社、鎌倉中央公園を中心に、旧跡と古刹、を訪ねました。前日の雨が朝まで残り、雨上がりの山道を心配しましたが、何とか無事に回り終わることができました。

 中央公園ではたっぷり時間を取っての昼食をを楽しみ、午前中の疲れを癒しました。

 午後からは鎌倉の中でもあまり歩くことが少ない西側の古戦場を中心に歩き、寺分というの地名の基となった大慶寺などを回りました。樹齢700年、市天然記念物のビャクシンの木2本は本堂の裏にあり、見事な大木です。

 泣き塔の由来はいろいろあり、夜な夜な鳴き声が聞こえたとか、無き人(無縁仏の意)の塔が訛ったとする説などあるようです。

 泣き塔の建つ一角の地名を「陣出」ということから「陣出の泣き塔」と言われています。

陣出の泣き塔 等覚寺

春の花を愛でて葉山

一色を歩く

日 時 2019年 4月 17日(水)10時〜 

 コース JR逗子駅-バス-葉山町役場〜

   花の木公園〜実教寺〜緑地公園〜平松

   地蔵・庚申塔〜夜泣石脇の庚申塔〜

   一色前田の庚申塔〜玉蔵院・森山神社

   〜一色公園〜しおさい公園・博物館〜

   県立美術館庭〜小村寿太郎終焉の地碑

   〜森戸神社…(解散)     

 ガイド:石井 山中 資料作成:山中

今回のルートマップ

 古将の墓 (町重要文化財)  花の木公園
 平松地蔵
 

  今回は葉山町の花の木公園や緑地公園、一色公園、又海辺近くの葉山しおさい公園等自然豊かな葉山の花を求めて歩きました。たまたま5月には今上天皇が退位され、新元号がスタートしますが、正門前に昭和天皇皇位継承の碑がある葉山しおさい公園は、参加者の皆様には興味深くご覧いただけたと思い思います。又御用邸のある葉山だけに森戸神社境内には、皇室関連の碑として下記のものがあります。

明治天皇御製 昭憲皇太后御歌碑

大正天皇御即位の御大典記念碑(即位を記念し、大正4年に建立)           

昭和天皇ご即位の御大典記念碑(即位50年を記念し、昭和50年に建立)

明治天皇 海辺雪 歌碑

「波のうへに 冨士のね見えて くれ竹の 葉山の浦の 雪はれにけり」

昭憲皇太后 里神楽 歌碑

 「くれ竹の 葉山の宮に きこゆるや 森戸あたりの かぐらなるらむ」 

逗子ボラの例会も今回で平成最後の開催とな理ました。次回は5月、新元号令和元年5月に実施となります。

 夜泣石脇の庚申塔(町重文)
 しおさい公園
 小村寿太郎終焉の地碑
森戸神社からの冨士山
 県立美術館全景

鎌倉幕府滅亡の史跡を歩く

日 時 2019年 3月 20日(水)10時〜 

 コース JR鎌倉駅西口〜甘縄神明神社〜

   高徳院(大仏)〜光則寺〜極楽寺坂

   切通し〜成就院〜稲村ケ崎〜十一人

   塚〜稲村ケ崎駅…解散     

 ガイド:橋本 畑島 資料作成:前島

今回のルートマップ

 甘縄神明神社 万葉歌碑 甘縄神明神社
 甘縄神明神社
日朗上人の土牢 光則寺
 

 今回は鎌倉幕府が、新田義貞に攻め込まれた場所を中心に見て歩きました。鎌倉に攻め込むには切通を抜けなければなりませんが、さすがにそこは守りが固く、新田軍も手を焼いていました。そんな時、引き潮を利用して稲村ケ崎の海岸沿いに攻め込んだという伝説話があります。

 甘縄神社は、和銅3年(710)行 基が草創し、豪族・染谷時忠が創建し た鎌倉最古ともいわれる由緒ある神 社です。 源氏と縁が深く、源頼朝が社殿を修理 したと「吾妻鏡」に記されています。

 境内にはこのあたりの景色を歌ったと思われる万葉集の歌碑が立っています。

 「鎌倉の見越しの崎の岩崩の 

      君が悔ゆべき心はもたじ

 日蓮の弟子、日朗上人はとらえられ光則寺の土牢に入れられました。その牢が今でも光則寺の浦山に保存されています。

[十一人塚]

 最終的には新田軍が勝利を収めたのですが、この戦は新田軍にも多くの犠牲者が出ました。元弘 3 年(1333)5 月、鎌倉攻 めの新田義貞軍の右翼軍の将・大館宗氏の主従十一名は稲瀬川のほ とりで、北条軍の攻撃を受けて全 員討ち死にしました。宗氏は、新田 義貞の分家の大館氏で片腕として 頼りにしてきた勇将でしたが、義 貞は宗氏ら十一人の死を悼み、こ こに遺髪を葬り、十一面観音堂を 建立し、その霊を弔ったと言われます。

 高徳院  大仏 
 成就院からの由比ガ浜
 十一人塚
 成就院
明治天皇歌碑 稲村ケ崎

名士保養の地大磯を散策

 日 時 平成31(2019)年2月 20日(水)

 集 合 大磯駅 10時集合

 コ-ス 大磯駅〜地福寺(藤村墓)?延台寺

    (虎御石)〜新島襄終焉の地〜鴫立庵

   〜伊藤公滄浪閣の碑〜旧吉田邸地区

    (昼食)〜旧三井別荘地区…バス利用

   …旧島崎藤村邸〜澤田美喜記念館

    (解散)〜大磯駅

 ガイド:三春 山中 資料作成:山中

今回のルートマップ

 地福寺 島崎藤村のお墓がある
 地福寺

 今回の例会は大寒時に行われたとはいえ、陽射しもあり、暖かい天候に恵まれました。久しぶりに大入り満員の盛況となり、たのしい散歩ができました。旧吉田邸の庭園の梅もちょうど見ごろで楽しませてくれました。

 多少距離が長いかと思い、途中バスを利用する計画でしたが、温かさのせいか、歩いてみるという人が多数いて、バス利用者は少ないという状況となりました。公園を歩いた後、訪ねた大磯町郷土資料館では、学芸員さんの説明もあり、それまで漫然と見てきた。遺蹟の意味が分かり、有意義な最後のしめとなりました。

 現在は別荘跡は一部を除いて解放されておりませんが、近い将来解放するための準備中とのこと、一日も早い一般公開が望まれます。

 鴫立庵  延台寺
 旧吉田茂邸の庭園  東海道松並木
 城山公園
 旧吉田邸 兜門
 大磯町郷土資料館

新春恒例

横金沢七福神めぐり

 日 時 平成31(2019)年 1月 9日(水)

 集 合 金沢八景駅 10時集合

 コ-ス 金沢八景駅〜弁財天 (瀬戸神社)

   〜大黒天(龍華寺)〜毘沙門天(傳心

   寺)〜福禄寿(正法院)〜称名寺〜

   金沢町々内会館(昼食)〜寿老人(寶蔵

   院)〜海の公園柴口駅…モノレール利

    用…並木北駅〜布袋尊(長昌寺)〜

   恵比寿尊(富岡八幡宮)……解散

   →京急富岡駅

 ガイド:三春 山崎  資料作成:山崎

今回のルートマップ

 瀬戸神社 焚火
 瀬戸神社 弁財天
 龍華寺  枇杷島
 傳心寺  大黒天 龍華寺
 

 1月は恒例の七福神巡りでスタートです。昨年まで、5年間ほど鎌倉の七福神巡りを行ってまいりましたが、ややマンネリ気分が感じられたので、今年は新しいコースとして金沢七福神を回ることにしました。

 この金沢区は、称名寺や金沢文庫など中世以降の文化資産が多く残されているうえ、金沢八景に代表されるように、風光明媚な地としても知られています。区ではこの観光資源を生かして、町の活性化を図るため、区内の寺院、神社、有志、が2年にわたって検討を重ねて「横浜金沢七福神」を創設しました。平成17年1月から公開されている比較的新しい七福神です。実際に回ってみると海あり山ありで景色は抜群だと感じます。距離が長いのでモノレールを利用しましたが、車内から見下ろす金沢の山や街そして海が素晴らしい景観を見せてくれました。

 コースの通り道に称名寺があります。ここは七福神のお寺には入っていませんが、ちょうど食事の時間帯で休憩がてら境内を散策しました。さすがに落ち着いた景観は歴史と寺格を感じさせてくれました。

 この七福神七福神回りで気が付いたことは各寺社が自ら所有する七福神に加えて、石造の七福神を境内に祭っていることです。境内に入ったとたんに、ここは七福神の何の神様をお祭りしているかが分かります。協議して七福神巡りを検討しただけあって、各寺社が協力し合っている様子がうかがわれました。また、この七福人巡りを通じて区の活性化を図ろうとしている区観光課の意気込みが感じられます。区の観光課には、我々が訪問することを各寺社に事前に連絡していただき、七福神巡りの期間後にもかかわらず、各寺社には色々便宜を図って頂きました。ここにお礼申し上げたいと思います。

 毘沙門天 傳心寺
 正法院
 福禄寿 正法院
 称名寺境内
 寿老人 寶蔵院  寶蔵院
 恵比寿尊 富岡八幡宮  布袋尊
 長昌寺

おだやかな冬晴れの

横浜を歩く

 日 時 平成30(2018)年12月19日(水)

 集 合 JR関内駅 10時集合

 コ-ス JR関内駅(南口・市役所側)〜

 馬車道(近代路樹発祥の地・「太陽の母子   

 像」・下岡蓮杖 日本写真の先駆者)〜

 中居屋重兵衛店跡〜日本郵船歴史博物館〜

 大桟橋(昼食)〜山下公園(解散)・・     

           ・・・天香楼

 ガイド:橋本 畑島  資料作成:橋本

今回のルートマップ

 太陽の母子像
 近代街路樹発祥の地
 中居屋重兵衛店跡  日本写真の発祥の地碑
 今回は、本年最後の例会で、終了後交流会の行われる中華街に近い場所を歩きました。開国時海外の最先端文化を取り入れた横浜は、日本で日本で初めてというものが、かなり多い街です。〇〇日本最初の地という場所が多く、特に馬車道沿いには日本で最初という碑が数多く見受けられます。今回そんな横浜を歩き、開国時の横浜の様子を思いめぐらす散歩と致しました。

 近代街路樹発祥の地:1867(慶応3)年頃、開港場・横浜の馬車道では、美しい景観づくりのため、各商店により柳と松の街路樹が植えられました。近代的街路樹の先駆です。人口過密な都市の景観的魅力を向上させる為に発達したものであり、参道並木、街道並木など、いわゆる地方並木とは区別されている。 仲居屋重兵衛店跡:中居屋重兵衛は、上野国吾妻郡中居村(現在群馬県吾妻郡嬬恋村三原)の出身で、横浜が開港した安政6年(1859)に横浜に進出し、黎明期の生糸貿易を担った貿易商です。その規模は生糸輸出量の半分を超えるほどで、一時巨万の富を築きました。しかしその最後は謎を含むものとなっています。

 今回は今年最後の例会で、解散後希望者による交流会が、中華街の天香樓で行われました。参加者の半数程度の人が参加し、お互いの親睦を強め合いました。交流会の終わるころは冬の日はとっぷりと暮れ、酔い覚ましに歩いた赤レンガ街のイルミネーションがとてもきれいでした。皆さん良いお年をお迎えください。

 インド水塔  日本郵船歴史博物館
 西洋理髪発祥の碑 ザンギリ 
 氷川丸
 リカルテ将軍記念碑
 交流会の場所中華街へ
 山下公園花壇と噴水

逗子の三名刹を歩く

 日 時 平成30(2018)年11月21日(水)

 集 合 JR東逗子駅 10時集合

 コ-ス JR東逗子駅〜(山道)〜神武寺

 〜法勝寺〜海宝院〜第一運動公園(昼食)

 〜熊野神社〜岩殿寺〜延命寺(解散)

 京急新逗子駅又はJR逗子駅

 ガイド:三春 山中  資料作成:山中

 

今回のルートマップ 

神武寺客殿 (宝珠円)
神武寺表山道
海宝院 山門 神武寺薬師堂
 

 今回逗子ボランタリーガイド倶楽部としても初めての試みとして、逗子の三名刹を一度に回る計画を立てました。逗子の三名刹と言えば、共に奈良時代の720年ごろに創建された岩殿寺、神武寺、延命寺の三山と言ってよいでしょう。三山とも古刹で、それぞれに古い歴史を持っている由緒あるお寺です。

 この三山はちょうど三角形の頂点の位置にあり、一回りするにはかなりの距離があります。しかし今回電車もバスも使わずに一回りする計画を立てました。東逗子駅?神武寺?海宝院を経て第一運動公園で昼食、そこから山の根を通って熊野神社などに寄り、トンネルを抜けて、岩殿寺に至ります。一休みする間もなく岩殿寺の長い階段を登り、体力の限界を感じながら観音堂で休憩をとりました。 あとは延命寺を残すだけですが、ここからは下りと平地だけなので、比較的楽に延命寺にたどり着きました。集合場所から最後の延命寺までは、私の万歩計では16000歩ほどでした。

 途中どうしても歩けなかったら、遠慮なくリタイヤしてくださいとお話しして出発しましたが、ほとんどの人が、最後まで完歩しました。今後このコースが逗子三山古刹巡りのスタンダードになるかもしれません。

熊野神社 海宝院 白山妙理大権現
岩殿寺 山門
岩殿寺 大悲殿(観音堂)より
延命寺 本堂 岩殿寺 猿田彦神社
延命寺 

久里浜の歴史と花の国散策

 日 時 平成30(2018)年10月17日(水)

 集 合 JR久里浜駅 10時集合

 コ-ス JR久里浜駅〜吉井貝塚・怒田城址

 〜内川新田〜八幡神社〜正業寺

 〜長安寺・火伏不動〜蓼原古墳〜久里浜

 天神社〜くりはま花の国 (昼食)〜

 傳福寺〜住吉神社〜ペリー公園(ペリー

 上陸記念碑・記念館)〜夫婦橋・内川新

 田開拓記念碑〜久里浜駅(解散)

 ガイド:石井 山崎  資料作成:山崎

今回のルートマップ 

途中の公園で説明 吉井貝塚を散策
正業寺 八幡神社
くりはま花の国 長安寺
 今回は久里浜の歴史を訪ねる散策を計画しました。全国的にはペリー来航で有名な久里浜ですが、そこには大昔からの人々の生活の跡が残されています。今回はそんな久里浜の史跡を中心に歩いてみました。

 久里浜は三浦半島第一の大河、平作川の河口に開けた町です。中世までは現在の衣笠駅付近まで古久里浜湾と呼ばれる海であり、その両岸に人々が暮らしていました。吉井貝塚、茅山貝塚などにその生活の跡が残っております。

 その後、海は少しづつ後退してゆきますが、古墳時代に比較的標高の低い土地に蓼原古墳、八幡神社古墳などが作られました。

 平安時代末期には三浦氏の所領となりますが、三浦氏は源頼朝と共に蜂起し、一度は破れますが、再起を果たし再び三浦の地を回復します。鎌倉幕府の有力な家臣となった三浦氏も宝治の合戦により北条氏に滅ぼされます。

 江戸時代に至り、湿地帯であった平作川流域に万治3年(1660年)内川新田が開拓され米の生産量も増えました。内川新田の開発により、今の久里浜の基礎が出来たと言えるでしょう。

 幕末になり黒船来航と共にペリー一行の上陸地として一躍脚光を浴びることになります。浦賀がペリー一行との会談場所としては手狭であったため、広い砂浜があった久里浜の地が選ばれました。

 明治以降、横須賀に軍港が置かれ久里浜にも軍事施設が多く作られました。大戦中の昭和17年には今の京急久里浜駅が、昭和19年にはJR久里浜駅が開業します。

 戦後は軍事施設なども返還され、工場を誘致するとともに周囲の丘陵地にはハイランド、岩戸など住宅地も開発され人口も増えてきました。昭和35年には東京湾フェリーの開設により南房総への玄関口ともなりました。京浜急行の路線は順次延伸され、昭和50年には三崎口まで延長されました。昭和61年には、丘陵地に「くりはま花の国」が開設され、春のポピー、秋のコスモスと四季の花を愛する人たちで賑わっております。

         配布資料 久里浜今昔より

傳福寺 花の国から久里浜港を望む
ペリー記念公園 住吉神社

初秋の葉山 文学散歩

日 時 平成30(2018)年 9月19日(水)

集 合 JR逗子駅 10時集合

コース JR逗子駅〜逗子駅バス乗車…向原

  下車〜葉山町図書館〜西東三鬼邸跡〜

  堀口大学邸〜横光利一借家跡〜森戸神社

  (西東三鬼・堀口大学碑)(昼食) 〜

  名島 (名島の亀)〜柴崎海岸〜宮城道雄記

  念館〜高橋是清邸跡〜旧團琢磨邸〜葉山一

  色海岸〜旧太田治子宅〜一色・大浜海岸〜

  葉山御用邸〜エビ島〜葉山公園(解散)〜

  バス停(葉山)

ガイド:三春 山中  資料作成:三春

 

今回のルートマップ

堀口大学旧宅 最初の挨拶
森戸神社
西東三鬼の句碑
森戸の沖を見る参加者
森戸神社での説明

 今回は葉山の文学に関係する場所、建物、などを訪ねました。たまたま好天に恵まれ歩くには絶好の一日となりました。翌日からまた雨の日が続いたことを思うと、まさに天の恵みと言わざるを得ません。春以来雨にたたられることが多かったので、このあたりで、天も哀れみをかけられたのでしょう

 訪ねた場所や景色は下記の通りです

   著者    作品名     場所

 横光利一  春は馬車に乗って 森戸海岸

 西東三鬼  西東三鬼全句集  森戸神社

 湘南文学三号 名島のカメ   名島

 喜多嶋隆 ラストキスは湘南で 森戸海岸

                 芝崎海岸

 宮城道雄  雨の念仏     真名瀬旧宅

 團伊玖磨  エスカルゴの歌  一色海岸

        (竜舌蘭より)

       炎上       御用邸 

 有馬頼義  葉山一色海岸   一色海岸

 太田治子   父の言葉    一色 

       わが心の葉山(ガルボハット)

 堀口すみれ子 一色・大浜海岸  森戸 

 加賀乙彦  永遠の都(岐路)  一色海岸                エビ島                         

 中野孝次  季節の終わり   長者ヶ崎

 以上作者、作品名、関係する場所をあげましたが、葉山というブランド名によって、宮家をはじめ多くの文人、政治家、その他上流階級の人たちが別荘を持ち、葉山を愛し、葉山を取り上げて書物を書いているようです。

 歩いてみるとわかりますが、葉山の海岸は絵心を誘われるほどの何とも言えない美しさがあります。その点鎌倉、逗子などの海岸とは一味違っているのは確かだと思います。

芝崎海岸
木陰での昼食
太田治子の旧借家
葉山公園から望む

 浅野総一郎とキリンビール

工場見学

日 時 平成30(2018)年 7月18日(水)

集 合 JR新子安駅 10時集合

コース JR新子安駅集合〜浅野総一郎銅像

    〜キリンビール工場〜生麦事件碑

ガイド:橋本 畑島  資料作成:橋本

 

今回のルートマップ

浅野中、高校資料展示室
浅野中、高校資料展示室
浅野総一郎像前の広場
浅野総一郎像
 7月の例会は6月の大雨とは打って変わって朝からカンカン照りのじりじりむしむしの暑い日となった。暑さが予想されたため、事前に極力歩く距離を短くしたコースを設定しましたが、それでも10分も歩くと汗が噴き出るような暑い一日となりました。

 幸い浅野中学高等学校は夏休みに入り、山田教頭先生のご好意で、展示場の見学や浅野総一郎の銅像説明などもしていただけました。昼食休憩のために校舎内の大教室まで使わせていただき、参加者も涼しい部屋での休憩に元気を回復したように感じました。この場を借りて教頭先生には改めて感謝を申し上げたいと思います。

 今回は浅野総一郎関連の施設とキリンビール工場の見学が主な目的でした。

浅野総一郎(1848〜1930)一代で浅野財閥を築き上げ、“京浜工業地帯の生みの親”とも“コンクリート王”とも呼ばれる浅野総一郎は、嘉永元(1848)年3月10日、現在の富山県氷見市に医者の長男として生まれ、幼いころから大商人になる夢を抱いていました。郷里で商売に失敗し、裸一貫で上京し、水売りから始めて竹の皮、薪や炭、コークス、コールタールなどリサイクルの先駆者として商売を拡大していきました。1896年(明治29年)には欧米視察に赴き、英国、ドイツ、米国などの港湾開発の発展ぶりを目の当たりにし、重工業発展には原料・製品の輸送が最大課題で、港湾施設の必要性を痛感して帰国します。

正3年(1914年)には「鶴見埋築株式会社」(現東亜建設工業株式会社)を創立、埋立組合の事業いっさいを引き継ぎます。この埋立事業は15年の年月をかけて昭和3年(1928年)に一応完成し、後に「浅野埋立」と呼ばれるようになります。完成後、浅野セメント、日本鋼管、浅野製鉄所、旭硝子、日清製粉などが次々と進出し、京浜臨海工業地帯の中核となって行きます。石炭・製鉄・造船・機械・セメント・石油などの重工業が日清、日露戦争を機に各地で官民競争しながら、発生しその後、第一次世界大戦の特需を受け、浅野総一郎は一代で浅野財閥を築きます。日本の発展と自らの夢の実現に生きた浅野総一郎は、昭和5年(1930年)11月9日82歳の生涯を閉じます。

野 計 安政5年8月(1858年9月)- 1897年

(明治30年)12月14日)19世紀の実業家。明治屋を創業しました。(いその はかる)1884年(明治17年)に留学を終えて三菱の新造した横浜丸の事務長となり、日本郵船が設立されると同社への雑貨納入権を獲得し、10月に三菱を退職して横浜で明治屋を創業しました。

キリンビール見学控室
浅野総一郎像の裏手モニュメント
キリンビール発酵過程の説明 キリンビール麦汁濾過装置
生麦事件の碑 キリンビール発酵過程見学
生麦事件

文久2年(1862)5月、勅使・大原重徳(おおはらしげとみ)を護衛するという名目で江戸入りした島津久光は、幕府に対し尊皇壌夷の確認をすると同時に、安政の大獄以来謹慎させられていた松平春嶽を政治総裁職に、一橋慶喜を将軍後見職に就けることに成功します。

 文久2年8月21日(1862年9月14日) 神奈川の生麦村付近で,騎馬のイギリス人4名は、島津久光一行の行列に行きあたってしまった。そして薩摩藩士に怒鳴りつけられ、慌てて馬首を巡らそうとしましたが、興奮した馬が逆に行列に突っ込んでしまい、それを見て激怒した藩士たちに斬られてしまったのだ。その男はイギリス商人のリチャードソンといったが、深手にめげず馬を飛ばしてその場から逃れた。しかし、出血がひどく、しばらく行ったところで落馬して、虫の息だったところを、追いついてきた薩摩藩士にズタズタにされた。

明治屋は、船舶納入業の他に食料品の卸売・小売、酒や煙草の輸入業務も行なった。明治屋は外国の一般船やアメリカ、イギリスの軍艦などとも取引を行なうようになり、業務を拡大していきました。この頃、ジャパン・ブルワリー(現・麒麟麦酒)が日本全国でのビール販売開始を検討していたが、1888年(明治21年)5月7日に国内総代理店として明治屋が契約を締結した。これによって直営地域の横浜・長崎以外での販売権を明治屋が獲得する事となりました。なおのちに、明治屋のキリンビール販売部門は麒麟麦酒株式会社へ合意のうえで吸収されました。

 盛りのしょうぶ園と周辺

名刹を散策

日 時 2018年 6月20日(水)10時〜

集 合 JR衣笠駅

コース 衣笠駅〜大明寺〜妙傳寺〜大光寺〜

   福泉寺〜平作神社〜大蔵寺(瘡守

   稲荷)〜しょうぶ園(昼食解散)

ガイド:石井 三春  資料作成:三春

 

今回のルートマップ

  大明寺
  妙傳寺
  平作神社
  大光寺 山門
 

 今回の例会はおり悪く当日は雨模様のスタートでした。何とか回れるかなとスタートしましたが、最初の大明寺までの間にドシャブリとなり、本堂での講話が終わっても本降りが続く状態で、参加者の皆様の希望を聞き対処することにしました。

1.このまま中止にしてここで解散する。

2.ルートを変え、バスでしょうぶ園へ行き、 そこで食事を済ませ、天候が回復すれ逆  ルートで歩く。

以上の結果1と2は約半々となり、それぞれ選択通りに実施することとした。

 2を選んだ人はしょうぶ園で食事後、幸い雨が上がったコースをすべて回って無事衣笠駅に到着した。

 したがって今回は雨で当日の写真が取れなかったので、会のスタッフが前もって下見をした時の写真を掲載させていただきました。お天気であればこんな状況だったのかと思いをはせ、ご覧いただければと思います。

  しょうぶ園 スタッフと花摘娘
  大蔵寺
 しょうぶ園花摘み
  しょうぶ園 水車小屋

文学にある逗子を訪ねる

日 時 2018年 5月16日(水)10時〜

集 合 JR逗子駅

コース JR逗子駅?忠臣三浦胤義遺弧碑〜

   蘆花公園〜養神亭跡〜文学記念碑

  「太陽の季節」〜渚ホテル跡〜不如帰

   の碑〜披露山公園〜小坪

ガイド:伊藤 橋本  資料作成:橋本

今回のルートマップ

 三浦胤義遺弧碑
 仲町橋 テレビ取材を受ける
 蘆花記念公園

 逗子は別荘地として開けてきたので、昔から文士が多く住み、また小説の題材となった場所が多くあります。今回そんな文学とかかわりがある場所を訪ねました。

 三浦胤義遺弧碑:承久記には承久3年5月、後鳥羽上皇が鎌倉幕府打倒を企て挙兵したが、大挙西上した北条泰時以下の幕府軍に完敗し、朝廷と幕府の力関係が逆転した承久の乱についてかかれています。後鳥羽上皇にさそわれ、朝廷側についた三浦胤義は自害。横須賀に残された5人の子供は長男を除いて、幕府側についた叔父の義村に、祖母の嘆願もむなしく惨殺されてしまった。この幼子9歳、7歳、5歳、3歳の霊を弔うため大正12年(1923)に地元の有志により建立されたのが、「忠臣三浦胤義遺弧碑(いこひ)」です。

 仲町橋:ここでガイドの説明中、かまくらテレビのカメラ撮影を受け、即日放映された。

 太陽の季節の碑:石原新太郎の『太陽の季節』)昭和30年(1955)に発表されたこの作品は、当時衝撃的な印象を社会に与えた芥川賞受賞作です。若者たちを描いた一連の作品は弟・裕次郎の登場で映像化され、爆発的な人気を呼んだ。太陽族“の誕生でした。

 不如帰の碑:「あああ、人間はなぜ死ぬのでしょう!生きたいわ!千年も万年も生きたいわ!死ぬなら二人で!ねエ、二人で!」 これは有名な徳富蘆花『不如帰』 の中のヒロイン浪子が逗子海岸の不動堂(のち浪子不動とよばれる)で夫の川島武男海軍少尉に言ったセリフです。蘆花は明治30年から33年までの足かけ4年間、逗子の柳屋へ間借りして、自然と大いに親しみました。

 逗子マリーナ:川端康成が昭和47年(1972) 4月16日小坪の逗子マリーナの一室で、自殺した。大崎公園からはそのマンション群が良く見える。

 泉鏡花文学碑:鏡花は逗子の桜山に一軒家を借り明治35年7月から9月までの1ヵ月半ほど暮らしました。師の紅葉の突然の来訪で、桃太郎といるのを発見された鏡花が青くなって震えたというエピソードが残っています。                 

 富士見橋にて
 不如帰の碑  太陽の季節の碑
 泉鏡花文学碑  大崎公園より小坪マリーナを望む
この桃太郎をめぐり、若い弟子の将来を考えて別れさせようとする紅葉と、桃太郎との愛を貫こうとする鏡花との間の確執が、のちに『婦系図』 の早瀬主税(ちから)と芸者お蔦(つた)との話になったといわれています。2度目の逗子は、明治38年から4年間で、心身ともに疲れた鏡花は、思い出の地逗子に居を移しました。逗子と無関係な『婦系図』は鏡花の逗子時代と関係の深い作品といえるでしょう。

新緑の鎌倉五山を巡る

日 時 2018年 4月19日(木)10時〜

集 合 北鎌倉駅 (JR) 

コース 北鎌倉駅〜円覚寺〜浄智寺〜

   建長寺(昼食)〜岩船地蔵堂〜寿福寺

   〜鎌倉八幡宮(休憩)〜浄妙寺〜

   バス停解散

ガイド:石井 山中 資料作成:前島

円覚寺 新緑の境内
円覚寺 妙香池
浄智寺 鐘楼門
円覚寺 洪鐘(おおがね)
 今月も前月と同様第3水曜日が雨となり、順延となりました。当初の参加予定者数からするとかなり減ってしまいましたが、前日とは打って変わって素晴らしい天気に恵まれ、新緑の映える寺院の境内を楽しむことができました。

 円覚寺:瑞鹿山(ずいろくさん)円覚寺 臨済宗円覚寺派大本山鎌倉五山第二位 開基:北条時宗  開山:無学祖元 北条得宗家の祈祷寺となるなど、鎌倉時代を通じて北条氏に保護されました。           妙香池(みょうこうち):夢窓疎石作と伝える庭園の遺構です。創建当初よりある池で、江戸時代初期の絵図に基づき、平成12年、方丈裏庭園と合致した自然の姿に復元しました。 洪鐘(おおがね):北条貞時寄進の洪鐘(国宝):正安三年(1301)、九代執権北条貞時が寄進した国宝の鐘楼です。正安3年(1301年)、鋳物師物部国光の制作で、高さ2.6メートルを超える大作です。

 浄智寺金宝山 臨済宗円覚寺派 鎌倉五山第4位で、本尊は阿弥陀如来・釈迦如来・弥勒如来の三世仏で、それぞれ過去・現在・未来を象徴します。境内は「浄智寺境内」として国の史跡に指定されています。

 建長興国禅寺:臨済宗建長寺派の大本山鎌倉時代の建長5年(1253年)の創建で、本尊は地蔵菩薩。開基(創立者)は鎌倉幕府第5代執権・北条時頼、開山(初代住職)は南宋の禅僧・蘭渓道隆で、第二世は同じく南宋の兀庵普寧です。鎌倉五山の第一位。境内は「建長寺境内」として国の史跡に指定されています。

亀谷山(きこくさん寿福金剛禅寺:鎌倉五山第3位の寺院です。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は北条政子、開山(初代住職)は栄西です。鎌倉三十三観音霊場の第24番。鎌倉二十四地蔵の第18番。境内は「寿福寺境内」として昭和41年国の史跡に指定されました。

稲荷山(とうかさん)浄妙広利禅寺:鎌倉五山の第五位です。本尊は釈迦如来。開基(創立者)は足利義兼、開山(初代住持)は退耕行勇です。境内は南に開けた谷の中央に位置し、西には杉本寺と杉本城址、東は胡桃ヶ谷(くるみがやつ)があり、南に衣張山を望めますかつては広大な寺地を有し、23箇院の塔頭を有していました。現在でも付近一帯の地名を「浄明寺」といい(地名は「妙」の代わりに「明」字を用い)、住宅団地名にも使用されるなど、その名残を残しています。

五山を回り終えて、改めて鎌倉の寺を見直した感じがします。それぞれの寺社には五山といわれるだけの伝統と歴史があるようです。五山を一日で回るということに、果たして全員が歩いていけるかどうかの心配もありました。しかし、参加者全員が最後まで回り終えることができて、心配は杞憂に終わりました。

 建長寺 仏殿
 建長寺 三解脱門
 建長寺 梵鐘
 建長寺 唐門
 浄妙寺 本堂
 寿福寺

戸塚の旧大山道を歩く

日 時 2018年 3月23日(金)10時〜

集 合 踊場駅 (横浜市営地下鉄) 

コース 踊場駅〜踊場と念仏塔〜谷矢部公園

  〜来迎寺〜街山八幡社〜雲林寺〜富士橋

  〜大善寺〜丹後の局供養塔〜八幡社〜

  松尾神社〜篠塚八幡神社〜福泉寺〜

  日月社と姥子社〜大六天〜普光寺と

  天神社〜下岡津バス停(解散              

ガイド:三春 畑島 資料作成:山崎・三春

來迎寺 旧河原家元屋敷跡
街山八幡社
雲林寺
 今回は地下鉄踊場駅から、柏尾川上流の阿久知側に沿って大山道の跡をたどりました。江戸の人は東海道を下ってきて不動坂で別れて大山道に入り、富士橋から阿久知川に沿って岡津方面へ向かうルートを歩いていました。今回歩いたのは阿久知川沿いの大山道です。

 踊場:昔は寂しい町で猫が躍ったという伝説ができたほどです。現在は地下鉄ができたり、長後街道ができて大変にぎやかになりました。

 旧河原家:谷矢部池公園の一角に旧河原家元屋敷跡が残っています。

 来迎寺:「子育て呑竜」として名高い遊行僧呑竜和尚が諸国行脚のおり当地に来て、最初に建立したのが来迎寺(浄土宗)だと言われます。境内には三界無縁諸霊碑、戸塚七福神の内の寿老人があります。

 街山(つじやま)八幡神社と芭蕉句碑:鳥居の右側には本覚院不動尊堂、鳥居の右側には本覚院不動尊堂、境内には大山道道標を兼ねた庚申塔があります。[草色々おのおの華の手柄かな]と刻まれた芭蕉の句碑(文政8年(1825))もあります。

 雲林寺:雲林寺(曹洞宗)は承元4(1210)年、源頼朝の供養のために、北条政子が天台宗の寺院として建立したといわれます。もと三浦一族で、応永より永享間1394~1441) にかけて矢部を知行していた武士竹下小次郎、家臣の佐島図書と孫の七郎左衛門・風早二郎の供養構(明治24(1891)年)があります。

 松尾神社と蚕霊塔(さんれいとう):祭神は大山咋神(おおやまくいのかみ)です。左衛門大夫綱茂が社殿の整備に尽力し、山野開拓に志す者は遠近を問わず参詣し、又農地を寄進する者が相次いだと云い伝わっています。江戸時代には、大山参詣の人々で賑わったと言います。境内には蚕霊塔(明治33年(1900)),昭和2年再建があります

丹後局供養塔:昔はもう少し静かなところにあったのでしょうが、開発により現在の地に祭られたようです。こ地で出産したとの伝説が伝えられています。 

 篠塚八幡神社: 八幡神社は右手の丹後山南西側の麓に鎮座しています。正応年間に、村人が天下泰平・五穀豊穣を祈って天神地祇をまつり、応神天皇を主神として創建したものと云われています。

松尾神社 阿久知川の川原で昼食
篠塚八幡神社
丹後局供養塔
普光寺
上矢部石仏群
上矢部の石仏群(上矢部町2343付近)

  上矢部地区センター前バス停の道路わきに10基の石仏が集められています。このあたりの街道沿いにあったものが、開発時にここにあつめられたものです。

普光寺(ふこうじ)と天神社

入口のほほえみ観音が目につく。本尊は聖観世音菩薩(像高47p、割矧造(わりはぎつくり)、玉眼、彩色)で背面に墨書銘があり、長禄3(1459)年の造立とわかり、室町時代中期の開創です本堂内には銅造薬師如来坐像仏(室町時代)があり、病を治す仏として昔より地域の人々に信仰されています。境内には、横浜市の名木イトヒバ、モミジがあり、四国八十八ヶ所お砂踏、弁天堂、聖天堂、水子地蔵等があります。

龍馬の妻おりょうの寺と

大津付近

日 時 2018年 2月21日(水)10時〜

集 合 京急大津駅 (京浜急行) 

コース 京急大津駅〜大津コミュニティセン

  ター〜貞昌寺〜竹澤堰跡〜向井将監墓

  〜諏訪神社〜信誠寺〜大津町会館

  〜信楽寺〜大津館跡〜大津陣屋跡〜

  砂坂地蔵〜了正寺〜春日神社(解散)

  〜京急堀の内駅               

ガイド:山中 石井  資料作成:山中

竹林山貞昌寺
朝の挨拶 駅前の公園
向井将監正方夫妻の墓(右が正方)
竹澤堰跡

 今回は横須賀市大津にある坂本龍馬の妻おりょうさんの墓を中心に付近の史跡を訪問しました。あいにく寒い一日でしたが、会館を借りることができていたので、昼食は暖かい部屋の中でとることができました。

 竹林山貞昌寺  臨済宗:建武2年(1335)円覚寺の南山士雲禅師(北条貞時が京より招く)が開山したといわれています。本尊は運慶の作と伝えられる地蔵菩薩で、三浦地蔵尊第28番札所に数えられています。

 竹澤堰跡:昔、大津には多くの水田と堰(溜め池)がありました。現在は堰の一部が防火用水として残るのみです。

 向井将監正方夫妻の墓(右が正方):向井将監正方は幕府船手頭、御召船奉行、走水・三崎奉行などを歴任した江戸幕府の旗本で、旧大津村など六カ村が知行地でした。高台にあり猿島の浮かぶ海が見られます。

 大津諏訪神社:「大津のおすわさま」と親しみを込めて呼ばれています。天長元年(824)、信濃国の諏訪大社の御分霊を勧請したのがその嚆矢(こうし/かぶら矢/物事のはじめ)とされています。祭神として天照大神などに交じって三浦義村の名が見られます

嶂谷山信誠寺 浄土真宗:本願寺派の末寺で、本尊は阿弥陀如来です。寺伝によれば、開山は了海上人と伝えられています。境内には「逆さ銀杏」の木と、連如上人の碑がある。宝徳2年(1450)、蓮如上人が手にしていたイチョウの木の杖を逆さまに刺したところ、枝葉が繁茂したといわれています。祈願をすると乳の出が良くなると伝えられています

宮谷山至心院信楽寺。永正元年(1504)、証誉上人の開山で、本尊は運慶作といわれる阿弥陀如来です。三浦地蔵尊の第27番札所です。おりょうの墓は、死後8年に、妹の中沢光枝、夫の西村松兵衛らが建立。墓碑には「贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓」と刻まれており、夫である西村松兵衛の粋なはからいだったのでしょう。 

大津陣屋跡 相模国三浦郡大津にあった川越藩松平家が築いた陣屋でです。今はまったく建物は残って居ませんが、唯一大津中学校の校門脇に石橋が移築され現存しています

砂坂地蔵:二体のお地蔵様のうち、向かって左側が砂坂地蔵尊です。地蔵尊前の小さな坂のことを「砂坂」というので、砂坂地蔵尊と呼ばれています。また、イボ取りに霊験があることから、イボトリ地蔵とも呼ばれています。

 春日神社:祭神 天兒屋根命(あめのこやねのみこと)外十柱 創建 平安時代と伝えられている
由緒沿革 本社の鎮座地旧公郷は、藤原氏の荘園であった為、奈良の春日大社より分霊勧請したと伝えられる。古くは猿島に鎮座し、猿島他小島九ツを合せ十嶋故十嶋大明神とも称され、公郷一円の鎮守であったとのことです。

 今回は信楽寺のおりょうの墓とその付近ということで回りましたが、このあたりは古墳あり、神社ありで古い時代からある程度栄えていた集落であったのではないかと思う。

正方の墓から猿島を望む
大津諏訪神社
嶂谷山信誠寺
大津諏訪神社境内
おりょうの墓(信楽寺) 宮谷山至心院信楽寺
大津陣屋の石の橋 史跡
砂坂地蔵
春日神社

新春恒例 鎌倉七福神巡り

日 時 2018年 1月10日(水)10時〜

集 合 北鎌倉駅 (JR) 

コース JR北鎌倉駅〜〜浄智寺〜鎌倉

  八幡宮(旗上弁財天社)〜宝戒寺〜

  妙隆寺〜本覚寺〜御霊神社〜長谷寺

              (解散) 

ガイド:伊藤 橋本 資料作成:前島 三春

浄智寺 布袋尊 
 浄智寺 ?梅
 鶴岡八幡宮 弁財天
 宝戒寺 毘沙門天

 今年も新年は鎌倉七福神巡りで始まりました。恒例となった七福神巡りですが、今年はやや早めの10日に回りましたので、八幡様を中心に、まだまだお正月の雰囲気が残っておりました。特に本覚寺の境内は飾りつけられた恵比寿同をはじめ、境内での十日夷の売店では、着飾った巫女さんがお札を買った人に一人ひとりお祓いをしながら、手渡していました。なかなかきれいな巫女さんたちで、よほど自信があるのか、慣れているのか、カメラを向けても恥ずかしがることもなく、ポーズをとって笑いかけてくるほどでした。七福神を祭った7つの寺社の中で、最も派手で活気のあったのが本覚寺でした。

 浄智寺:布袋尊 いつもながらこの布袋様は参拝者に頭や腹をなぜられていました。よくなぜられるところは黒光りしていました。七福神中、唯―の実在人物。中国の戦国時代の禅僧で名を 契此(かいし)といい、諸国を放浪して預言、託宣を行い、優れ た予知能力から弥勒菩薩の化身とされました。福々しい笑顔 と太鼓腹、肩に下げた大きな袋が特徴です。

 八幡宮:弁財天 旗上弁財天社は鶴岡八幡宮の境内社です。 源氏池の中島に建つ境内社にあり、源頼朝が 源氏復興の旗上げの際にお告げを授けたと 伝わる弁財天が祀られ、参道や島には源氏の 象徴の白いのぼり旗が並べられています。

 宝戒寺:毘沙門天 、四天王の一仏で、別名「多聞天」といい、七福神の中で、唯一の武 将の姿をしていて、右手に宝棒、左手に 宝塔、足の下に邪鬼天の邪鬼を踏みつけ ています。七福神では、病魔退散、知恵 と勇気の神様として信仰されています。

 妙隆寺:寿老人、中国の道教が起源の神様で、福禄寿と 同じく星の化身で、にこやかな微笑みをたたえ、 手には巻物を括り付けた杖、そして団扇や桃など を持ち、鹿を従えた姿が一般的に知られています。 団扇は難を払い、桃は長寿のしるしで、鹿もまた 長寿の象徴です。長寿延命、富貴長寿として信仰 されています。

 御霊神社:福禄寿 福禄寿は、名前は、幸福の福、身分をあらわす禄、寿命を表わす寿の三文字 からなり、中国、道教の長寿神。南極老人 星の化身であり中国の村や町に住み、人々 の信仰を集めたといわれる仙人です。

 長谷寺:大黒天はヒンズー教のシバ神の別名で、仏教に入り 仏法守護神となりました。大国主命と神仏習合した ものです。一度仏となりましたが、人々に福徳を授 けるために再びこの世に現れたといわれます。

 毎年この長谷寺が七福神巡り最後の締めくくりとなります。今年の幸を願って福引が行われ、思わぬプレゼントに参加者のみなさんもうれしそうです。

 今年も皆さんの上に福・禄・寿が豊かに与えられますよう願ってやみません。

 

 本覚寺 十日夷  妙隆寺 寿老人
 本覚寺 本堂  本覚寺 夷堂
 長谷寺 大黒天
 御霊神社 福禄寿
 恒例の福引準備中
 長谷寺を後にする参加者

歌で綴る港横浜を歩く

日 時 2017年12月20日(水)10時〜

集 合 日ノ出町駅 (京急) 

コース:  

 日ノ出町駅〜美空ひばり像〜青江三奈歌碑

〜伊勢佐木町通り〜吉田橋〜横浜市役所前〜

大桟橋(昼食)〜山下公園〜港が見える

丘公園(解散)

ガイド:橋本 石井   資料作成:橋本

公募終了後、中華街にある中華料理店「天香樓」にて会員と参加者の年末交流会が行われました。

 美空ひばり像
 青江三奈記念碑
 伊勢佐木町ブルース発売50周年記念
 市役所前の広場
 赤い靴はいてた女の子  今回は「歌で綴る港横浜を歩く」と題して、昔から数多く歌に歌われてきた横浜港を中心に歩きました。横浜ほど歌に歌われてきた街も珍しいでしょう。横浜がタイトルに含まれているものは140曲、明らかに横浜を歌った歌を含めると264ということです。穂の中にはいろいろ調べる人がいるものと感心してしまします。

 横浜の魅力は何か、横浜市が調べた結果の一位は「街並み・景観」続いて「夜景」、「名所・旧跡」の順だそうです。いずれも景色がかかわっているようです。戦前戦後にかけて横浜の異国情緒、おしゃれな感じといったイメージが定着し、人びとの気持ちの中に横浜へのあこがれが育ってきたのだと思います。

 美空ひばり像:デビュー当時のシルクハット姿は、歌のうまさと共にいまだに記憶に残っています。「悲しき口笛」は当時としては記録的な45万枚の売り上げを記録したそうです。

 青江三奈碑:伊勢佐木町ブルースは彼女の代表歌です。出だしのため息が聴衆のど肝を抜いた歌でした。今回訪ねた伊勢佐木町では、「伊勢佐木町ブルース」発売50周年記念とかで垂れ幕を掲げていましたが、今一つ盛り上がりに欠けていたようです。人の流れは港未来に移ってしまったようです。

 大桟橋:たまたまこの日は飛鳥Kが停泊していました。豪華客船で大桟橋も小さく見えるほどです。これ以上大きい客船は横浜港に入れず、橋の外の隣の港に停泊するようです。

 赤い靴はいてた女の子像:この女の子は実際には病気になって、日本で亡くなったという説がありますが、事実はどうあれこの歌は人の心を打つ素晴らしい詩だと思います。

 港の見える丘公園:文字通り港が一望できる公園です。停泊する飛鳥Kやレインボウブリッジなどまるで絵にかいたような景色が楽しめます。

 交流会:毎年年末の恒例となった会員とお客様との交流会ですが、今年は初めて横浜中華街で行われました。昼間の横浜港、夜の中華街と横浜の魅力を十分に堪能した一日でした。

 

 飛鳥K(大桟橋)
 港の見える丘公園  「カモメの水兵さん」碑
 公園はずれにある噴水
 交流会の会場
 交流会の会場
 交流会の会場

逗子・鎌倉の紅葉と

名刹を訪ねる

日 時: 2017年11月15日(水)10時〜

コース: JR逗子駅〜岩殿寺〜妙光寺〜久木神 社〜久木大池公園自然ふれあいの森〜 華頂宮邸〜杉本寺〜荏柄天神社〜大蔵幕府 跡碑〜白旗神社(法華堂跡)〜源頼朝の墓 〜東勝橋〜宇津宮辻子幕府跡〜段葛〜JR鎌倉駅

ガイド: 畑島 山中   資料作成: 前島

     今回のルートマップ

 岩殿寺から海を望む  岩殿寺
 久木大池入口
 久木大池
 旧華頂宮邸
 旧華頂宮邸  

 海雲山岩殿寺(岩殿観音) 曹洞宗本尊:十一面観世音菩薩  開基:徳道上人・行基菩薩  創立:養老5年(721) 詠歌:たちよりて 天の岩戸を おし開き 仏をたのむ 身こそたのしき 泉鏡花が逗子に滞在していたのは明治35年と37年の夏であり、その折よくこの岩殿寺へは足を運んだらしい。ここの老僧に親近して、のちに参詣者の憩いにと鏡花は瓢箪池を寄進しました。

 久木大池公園 逗子景勝十選

久木大池公園は、公園として整備され、変化に富んだ岸辺を遊歩道がめぐり、住宅地の中にあって異次元に迷い込んだかのような散策が楽しめます。

旧華頂宮邸

鎌倉の緑深き谷戸の中に、古典的なハーフティンバースタイルの趣ある洋風建築があります。この建物は、旧華頂宮邸(かちょうのみやてい)といわれ、昭和4年の春に*華頂博信侯爵邸として建てられたものです。

 大蔵山 杉本寺本尊:十一面観音/重要文化財(国指定)杉本寺は、鎌倉市二階堂にある天台宗の寺院で、坂東三十三箇所の第1番札所です。鎌倉最古の寺とされています

 荏柄天神社:荏柄天神社は、長冶元年(1104)の勧請です。縁起によると延喜元年(901)菅原道真は大宰府に流され、三年後に死亡、その後天変地異が烈しかったと記録があります。道真が天神になって祟りをすると伝わり、鎮めるために、大宰府と京都北野天満宮が創建されたと伝わります。

 (伝)源頼朝の墓所由来:建久9年(1199)12月27日源頼朝は,御家人の稲毛重成の亡妻の供養のために,相模川にかけた橋の完成祝いに出掛け、その帰り稲村ガ崎で落馬したと伝わります。その落馬が原因で,翌年の建久10年(1199)1月13日に53歳で亡くなり、大蔵法華堂(現在の白旗神社)に葬むられました。

 東勝橋 東勝寺橋は、大正13年に建造されたアーチ橋です。関東大震災の復興期には、このようなアーチ橋が多く建造されましたが、そのほとんどが撤去された今日、当時の姿を保つ東勝寺橋は希少なものです。虹のような弧を描く東勝寺橋の姿は、周囲の緑や滑川の川面と見事に調和し、美しい渓谷風景の一部となっています。

 宇津宮辻子幕府跡 現在は、その一画に宇都宮稲荷神社。神社の前に、辻子幕府跡の石碑がたっています。この稲荷から北、南へ各180mぐらいが、辻子幕府政庁跡です。嘉禄元年(1225),北条政子が亡くなると源氏三代の政権は終わりました。北条泰時は北条政権の世に一新を図り,この地に新政庁舎を移転しました。

 旧華頂宮邸中庭から
 旧華頂宮邸 白いバラ
 荏柄天神社
 杉本寺
 源頼朝の墓  荏柄天神社 筆塚
 東勝橋
 宇津宮辻子幕府跡

  1. 秋麗の一時 歴史の 道 金沢道を歩く

 日 時 2017年10月18日(水)10時〜

集 合 弘明寺駅 (京浜急行)

コース 

  京急弘明寺駅〜弘明寺〜乗蓮寺〜

  住吉神社〜井土ヶ谷事件跡〜大光寺

  〜清水ヶ丘公園(昼食)〜北向地蔵〜

  本陣跡〜金沢横丁〜保土ヶ谷駅

 ガイド:石井 橋本  資料作成 前島

弘明寺 本殿 弘明寺 山門
弘明寺 境内
乗蓮寺門前
乗蓮寺 尼将軍御影堂碑 乗蓮寺 尼将軍化粧の井戸
 今回のコースは弘明寺観音など一部は何度か行ったことのあるルートですが、コースとしては初めてのルートです。尼将軍政子ゆかりの乗蓮寺では、ご住職のご厚意で、政子自作の尼将軍座像といわれる像を拝観することができました。これは貴重な体験となりました

 瑞應山 蓮華院 弘明寺:高野山真言宗 本尊:十一面観音。行基が勅命を得て、天下泰平祈願のため全国を巡錫(じゅんしゃく)して、この地の浄域に草庵を作り、一刀三礼(一刀刻む毎に三度礼拝する)の至誠を尽くして彫刻祈願されたのが、現在の本尊十一面観世音菩薩と伝わります。金剛力士像(仁王像)と仁王門、梵鐘と鐘楼堂、木造 黒漆花瓶など、横浜市指定有形文化財です。

 西向山妙歓院乗蓮寺:高野山真言宗 本尊は不動明王。乗蓮寺は、源頼家・実朝の菩提を弔うために、北条政子が開基となり、貞応元年(1222年)創建し、照C法印が開山したと伝わります。慶安2年(1649)江戸幕府より寺領3石6升の御朱印状を拝領していました。「尼将軍の寺」とも呼ばれ、「尼将軍化粧の井戸」といわれる井戸のほか、政子自身が彫ったと伝わる、尼将軍坐像が残されています。今回この坐像を拝観させていただきました。

 住吉神社:明治初年神仏分離の際境内を区画して、乗蓮寺と分離し村社に列せられました。以前は海辺に鎮座しておりました。

 井土ヶ谷事件の跡: 井土ヶ谷事件は、江戸時代末期 1863年10月14日横浜市南区井土ヶ谷下町3付近)で起きた、攘夷派の浪士によるフランス士官殺傷事件です。

 松吟山寶樹院大光寺:高野山真言宗 本尊:阿弥陀如来。延宝7年(1679)に大本山高野山桜池院から山号院号を付与されたと伝わります。当寺の黒門は、旧金沢六浦藩米倉侯陣屋の辰己南門を移築したものだといい、東福寺の赤門に対して、黒門と呼ばれます。

 清水ケ丘公園:横浜市運営公園。横浜国立大学の移転跡地に、昭和天皇在位60年記念健康公園の一つとして整備された運動公園です。 起伏に富んだ緑豊かな園内には、体育館、屋内温水プール、テニスコート、運動広場といった多様な運動施設があります。階段を上ると120段あります。

 北向地蔵横浜清風高校の近く、いわな坂を上りきった交差点の脇にあります。地蔵が見守るこの道は「かなざわかまくら道」として古くから多くの人に利用されてきました。

 保土ヶ谷宿本陣跡:保土ヶ谷宿本陣跡は、慶長六年(1601)正月、東海道の伝馬制度を定めた徳川家康により、「伝馬朱印状」が「ほどがや」宛てに出されたことで、保土ヶ谷宿ができました。跡地は、交通量の多い国道一号沿いにあります。本陣以外にも脇本陣など史跡の集中している場所でありますが、遺構は残されていません。

 今回の目玉はやはり尼将軍坐像の拝観でした。ご住職のご厚意に感謝すると共に、今後も末永く後世に伝えられることを願っております。

住吉神社
住吉神社境内 秋葉神社
大光寺 井土ヶ谷事件跡碑
大光寺
清水ヶ丘公園階段
清水ヶ丘 お弁当
弘保土ヶ谷宿 本陣跡
北向地蔵

秋めく南下浦ぶらり旅

 日 時 2017年9月20日(水)10時〜

 集 合 三浦海岸駅 (京急線)

 コース:三浦海岸駅…バス…剣崎バス停

  〜間口洞窟遺跡〜切支丹灯籠〜福泉寺

  〜福寿寺〜三浦義村墓〜金田漁港(昼)

  〜清伝寺〜走湯神社〜円福寺〜法昌寺〜

  白山神社〜十劫寺〜閻魔堂と岩船地蔵〜

  上宮田海防陣屋跡〜三浦海岸駅(解散)

 会 費500円 拝観料、交通費は別途

   お弁当は各自持参

 江奈湾
 切支丹灯籠
 福泉寺  福泉寺 是法平等
 このコースは以前逆ルートで歩いたことがあります。かなり距離があり、きついので今回は比較的下りが多い剣崎から三浦海岸に向かうルートにしました。このあたりは三浦氏の本拠地でもあり三浦氏に関わりのある寺や史跡が点在しています。

 江奈湾の干潟:四季を通じていろいろな生物を見る事ができます。中でもカニ類が多く、アシ原にアカテガニやアシハラガニ、泥場にコメツキガニ、などが生活しています。そのほかエビ類、貝類、鳥類など干潟の生態系を保っております。          

 切支丹灯篭:この灯篭は明治6年に漁師が海で発見したといわれています。左右に張り出した形は十字架を表しているようで、上部に卍(カギクルス)とその下にマリア像が刻まれています。

 千光山福泉寺:臨済宗建長寺派、禅僧の濱溟誉(ひんめいよ)により大浦湾に開創され、元禄16(1704)年の大津波で本堂はもとより墓地まで流され、現在の地に移ったといわれています。敗戦直前の昭和20年6月15日、三浦市の松輪の江奈湾に水上特攻隊、自爆ボートの「第56震洋隊」が配備され、本部が福泉寺に置かれました。

 岩浦山福壽寺 臨済宗鎌倉建長寺派 開山は慶叔大孝禅師大和尚で、建暦2年(1212)3月、開基は三浦大介義明の孫にあたる三浦駿河守義村、寺は正治2年(1200)3月に建立されました。本尊は聖観世音菩薩、寺宝として三浦義村の使用した鞍、鎧、脇差等が保存されています。境内には、冒険家として高名な西堀栄三郎、植村直已、多田雄幸の顕彰碑があります。植村直已はこの寺をよく訪れ、住職と語り合ったとのことです。

 三浦義村(??1239):父三浦義澄と母伊東祐親の娘の子、衣笠城の六代目城主。父のあと三浦一族の棟梁となった義村は右兵衛尉、左兵衛尉をへて、駿河守に任ぜられ、嘉禎(かてい)4年(1238)4月、幕府評定衆に加えられ、北条氏を凌ぐ勢力で三浦氏の最も隆盛の時代を築いた人です。

 金田山清伝寺: 臨済宗建長寺派 開山は建武年間(1334〜35)桃源宗悟禅師の建立とされており、本尊は聖観世音菩薩で、「安産の観音様」として、地域の人々の篤い信仰をあつめている。この寺には河童が詫び証文を書いたという、言い伝えがあります。悪戯をしようとする河童を捕えて、普段から恨んでいた里人達が、寄ってたかって河童をいじめていると、騒ぎを聞きつけてきた和尚が見兼ねて止めに入り、河童を助けて、「人を騙すような悪さをしないよう」よくさとしたと。前非を悔いた河童は二度と悪戯はしませんと詫証文を書いたという。

 走湯神社:地元では「金田の権現様」と呼ばれています。祭神は天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)です。水田などの農耕の神様です。寛治元年(1087)、伊豆国加茂の金田走湯神社から分祀されました。

 金田山円福寺:浄土宗 かつては浄土宗鎌倉光明寺の末寺で開山は光明寺の伝設大和尚です。天文17(1548)年、海岸にあった地蔵堂を現在の地に移し、金田山圓福寺と称しました。

 白山神社: 菊名左衛門重氏の守護神で、かつては白山宮と称したそうです。重氏は三浦義同(みうらよしあつ/道寸)の家臣とされる人物です。三浦一族は、台頭してきた伊勢新九郎盛時(北条早雲)と対立し、三浦の地で滅ぼされてしまいます。そのときに菊名一族も滅亡したため、神社は久しく荒廃したそうです。江戸時代初期になると神社は村民らによって再興されました。

 正覚山成等院十劫寺: 浄土宗 正覚山専求院と言います。開山は江戸の芝、西応寺の僧である厳譽によります。開基は地元上宮田の豪族、松原新左衛門です。昔は真常寺と言いましたが、元和元年(1615)に松原氏の再建によって十劫寺と改めました。本尊は阿弥陀如来です。

 松原新左衛門:後北条氏が三浦半島を支配していた頃、房州の里見義弘はしばしば三崎の地に攻撃をしています。永禄10年(1567)、里見氏は水軍を率いて、菊名沖に来襲しました。→

 金田湾 漁港
貯水タンク
 三浦義村の墓
福寿寺 西村・植村・多田 顕彰碑
 清伝寺
 走湯神社
 圓福寺
 白山神社横穴古墳
 十劫寺
 岩船地蔵
。この時、北条綱成は海上で風雨のために方向がわからず、右往左往していました。これを見ていた松原新左衛門は船を出し、門灯を立てて北条軍を導いたため、勝利を得ることができました。松原新左衛門はこの功によって士分に取り立てられました。

岩井口閻魔堂と岩船地蔵: 三崎方向と金田方向の分岐点に「岩井口閻魔堂」(正覚院)があります。十劫寺の管理で、境内に庚申群、閻魔堂の右側に三浦ではきわめて珍しい「岩船地蔵」があります。大きな岩船に乗る地蔵坐像で台石に「石舩地蔵」とあり、造立年代は不明ですが、この地蔵は漁師が海難に合った時、救ったという伝説があります。

平成の初めまでは、岩船地蔵も同じ堂内にあったようです。

 閻魔堂

深緑の

小机城址周辺を歩く

 日 時 2017年7月19日(水)10時〜

 集 合 小机駅 (横浜線)南口 

 コース:小机駅〜雲松院〜太子堂〜金剛寺

   〜小机城址〜市民の森〜泉谷寺

    本郷神社〜林光寺〜鴨居駅
 

 会 費 500円 拝観料、交通費は別途

   お弁当は各自持参

 

 今回の小机城址散策は、会としても初めての試みでした。夏の暑さにも負けず、元気な参加者が大勢参加されました。

 雲松院:臥龍山(がりゅうさん)雲松院は曹洞宗の寺で、小机城の城主でした小田原北条家の家老笠原越前守信為(のぶため)が主君北条早雲と亡父能登守信隆(のぶたか)の菩提を弔うために建立したものです

 太子堂:雲松院を出るとすぐに太子堂へ登る山道がありますが、藪の中を歩くため蚊に襲われる恐れがあるので今回パスしました。

 金剛寺:天文(てんぶん)9年(1540年)に小机城址の下に草庵として開創され、天明6年(1786年)に曹洞宗に改め、現在に至っています。

 小机城址:武蔵国橘樹郡(たちばなぐん)小机郷(現在の神奈川県横浜市港北区小机町)にあった日本の城(平山城)。現在は小机城址市民の森として、城の遺構が良く整備されて残っています。標高42m、比高22m。

 築城年代築城者不明だが、室町時代・豪族小机氏が築いた館が発祥ともいわれています。この城が歴史に登場したのは、長尾景春の乱のうち1478年(文明10年)に起きた攻守戦でした。

 関東管領を務めた山内上杉家や扇谷上杉家では筆頭重臣として家宰(かさい)が置かれ、山内上杉家では長尾氏一族が代々任命され、扇谷上杉家では太田氏が家宰を務めた。山内上杉家の家宰(かさい)であった長尾景春が、父の死後に家宰職を相続できなかったことに端を発し、主家に対する反乱を起こしました。このとき景春の味方をした豊嶋氏が小机城に立てこもり、敵方の太田道灌が攻撃をしました。

 この時、道灌は近くの集落の松の大木の下に腰掛け、「小机はまず手習いの初めにて、いろはにほへとちりぢりとなる」と歌を詠んで味方を鼓舞した。程なく、鶴見川対岸の亀の甲山に陣をとり、約2か月をかけて落城させたとされています。

 長尾景春との戦いを制した功績が認められた道灌ですが、これにより山内上杉家から不信をかい、さらには主君である扇谷上杉家当主・定正からも疑いをかけられ暗殺されます。その理由とは江戸城に兵器・兵糧が大量に備蓄されていると言う噂が立てられたからです。これにより当主・定正の相模糟屋館に呼ばれた際、風呂場において暗殺されました。享年55歳のことです。

 今回のコースで、当初小机城址で昼食の予定でしたが、夏場で蚊が多いことから急遽昼食を日産スタジアムの近く、新横浜公園でとることにしました。ここは設備も整っており、きれいな場所で気持ち良い昼の休憩ができました。

 泉谷寺:1320年代に芝増上寺の末寺として創建された本覚院を1523年(大永3年)に北条氏綱の家臣二宮織部正が現在の場所に移し、見誉上人を招いて開山としたものだそうです。かつては小田原北条氏の保護を受け、やがて江戸時代には葵の紋 も許されたという由緒あるお寺です

雲松院山門前
雲松院
太子堂
金剛寺
金剛寺本堂前
小机城址本丸址広場
小机城址空堀
日産スタジアム
泉谷寺山門
泉谷寺山道から本堂を見る
林光寺境内
林光寺境内より本堂を望む
林光寺・西光寺:山号は鴨居山、高野山真言宗のお寺でご本尊は不動明王です。神奈川県が昭和10年に指定した神奈川県45勝跡のひとつである『奇利吹きの滝』。
かつて出羽三山へ修業に旅発つ山伏が身を清めた滝で『蛇が霧を吹く』と伝えられるほど荒々しい滝だったそうですが残念ながら現在の水量はとても少ないです。今でもよく整備されたきれいなお寺であると感じた。

北条氏の堅城、

玉縄城址の周辺を歩く

 日 時 2017年6月22日(木)10時〜

 ガイド:伊藤・前島  資料作成:前島

 集 合 大船駅 (西口)

 コース:大船駅西口〜玉縄首塚〜玉泉寺〜

  旧石井家?住宅・龍宝寺・玉縄ふるさと館

 〜諏訪神社〜大船フラワーセンター(昼食)

   大船フラワーセンター(昼食)〜貞宗寺〜

  円光寺〜久成寺(解散)

今月はあいにく21日の予定が大雨と強風のため、翌日に順延となり、22日の木曜日に実施されました。曜日が変わったことや、急遽の変更により、当初の申し込みよりかなり参加者が減り、残念な例会となりました。  しかし参加された方には十分楽しんでいただけたのではないかと思っています。

 玉縄首塚
朝の挨拶 大船駅歩道橋
陽谷山 龍寶寺  聖天山歓喜院 玉泉寺境内
諏訪神社  

 玉縄首塚:1526年(大永6)に安房(あわ)里見氏の鎌倉攻めの際に応戦し戦死した、渡内(わたうち)福原氏や大船甘粕(あまかす)氏一族35名を供養した塚といわれています。この首塚を甘粕塚または、甘粕榎(えのき)ともいいます。後世に六地蔵が祀られ、そのかたわらに由来を記した石碑が立っています

 聖天山歓喜院玉泉寺:玉泉寺は、江戸時代初期に亡くなった、玉縄城の家臣だった小林若狭という人物が建立した寺と伝わります。※山号の「聖天山」は、背後の山に聖天の祠があったことによると言われます。本尊の不動明王像は、胎内に小さなお不動さまを抱えていることから、「胎内不動」と呼ばれます。 秘仏本尊で、正月三が日にだけ開帳されます。胎内に納められた不動明王像は、鎌倉時代に願行上人が造ったといわれます。

 陽谷山龍寳寺:曹洞宗 開山 泰絮宗栄 開基 北条綱成龍寳寺は、玉縄北条氏三代の菩提寺です。は、1503年(文亀3)、玉縄城主北条綱成が玉縄城の東北、山居(現在の栄光学園周辺にあたる)に開基し、寺地を寄付して「香花院」とし、泰絮宗榮大和尚をもって開山した寺と伝わります。なお、綱成の戒名が「瑞光院殿実州宗心大居士」だったため、寺も「瑞光院」と呼ばれました。

 諏訪神社:祭神は 建御名方神 玉縄北条氏の守護神。 1512年(永正9)、伊勢新九郎盛時(早雲)と二代目綱成が玉縄城築城の際に、濃諏訪大社より城内(諏訪壇)に勧請したと伝わります。玉縄城址に諏訪神社があった場所は、現在でも「諏訪壇」と呼ばれています。

神奈川県立フラワーセンター大船植物園:大船植物園は、園芸植物を中心に展示を行っている植物園です。四季折々の美しい花や木、各種展示会をご覧いただけるだけでなく、芝生広場などで気軽にピクニック気分をお楽しみいただけます。

 玉縄山珠光院貞宗寺:徳川秀忠の祖母の貞宗院の遺言で開山されました。緑濃い樹木と竹林に囲まれた徳川家ゆかりの寺院といわれます。この寺の由来は、徳川家二代将軍秀忠の祖母、貞宗院(家康の寵愛を受けたお愛の方の実母)が大長寺四世源栄に帰依、「没後は自分の住んでいた家を寺に」遺言し、源栄を開山に慶長14年(1609)、大長寺の末寺として建立されました。

 城護山明王院圓光寺:開山は 澄範(ちょうはん) 開基は 北条氏時 真言宗大覚寺派の寺で本尊 は不動明王です。初代玉縄城主だった、北条氏時(早雲の次男)が僧澄範を、開山として招き、永禄年間(1558年?1570年)に玉縄城内に創建した寺であります。元和5年(1619年)、玉縄城が廃城となってから、現在の場所に移されました。

 光圓山久成寺:開山は日舜(にっしゅん) 開基は 梅田尾張守秀長。 久成寺日蓮宗で、もと身延山久遠寺末でした。1520年(永正17)、足利十一代将軍義澄に仕えた梅田尾張守秀長が宅地を寄進して寺を創建しました。徳川家康が小田原攻めの際に立ち寄って祈祷を頼み、恩賞として三石を与えたといわれ、其の後家康が、鷹狩りの折りには「葵の紋」入りの弁当箱を授けられたと伝わります。寺には、「鎌倉郡玉縄郷ノ内三石のこと」と書かれた徳川五代将軍綱吉の朱印状が残されています。境内には、三代将軍源実朝を暗殺した公暁を討ったとされる、長尾定景一族の墓があります。この長尾一族の墓は、大船観音の北の長尾氏の故地である長尾台から移されたと伝わります。定景は鎌倉時代初頭の武士で、長尾氏の子孫には上杉謙信(長尾景虎)がいます。

 龍寶寺 本殿
大船フラワーセンターのスイレン
長屋門の家
フラワーセンター サルビア他
大船フラワーセンターの薔薇
玉縄山珠光院 貞宗寺
城護山明王院 圓光寺
 光圓山 久成寺
 光圓山 久成寺 五輪塔

 御開帳の秘仏拝観と

     YRP施設見学         

 日 時 2017年5月17日(水)10時〜

 ガイド:山中・石井  資料作成:山中

 集 合 YRP野比駅 (京急) 

 コース:京急YRP野比駅〜バス〜YRP/

 ドコモ展示場&水辺公園(昼食)〜

  満願寺〜腹切りの松〜(清雲寺〜

  三浦義澄の墓〜近殿神社〜満昌寺

  〜解散〜バス停(衣笠駅・横須賀駅方面)

 会 費 500円(拝観料、交通費は別途)

   お弁当は各自持参

今月は超先端技術のテクノロジーと鎌倉時代以前の古い仏像という対比が面白いです。

光の丘水辺公園 横須賀リサーチパーク(YRP)
岩戸山 満願寺 岩戸の町の水路に錦鯉が!
腹切りの松

横須賀リサーチパーク:横須賀リサーチパーク(略称:YRP)は、電波・情報通信技術を中心としたICT技術の研究開発拠点として、1997年10月に開設されました。 全体面積は約61.7ヘクタール(東西約1.7km、南北約700m)で、現在、この地には、国際的な電波・情報通信技術の発展を目指す公的研究機関や、国内外の企業の研究所および大学の研究室が多数集積し、基礎から最先端に至る幅広い分野の研究開発活動が行われています。

光の丘水辺公園:小動物や植物等三浦半島の自然の復元と、その保存を目指しています。四季の池、野鳥の池、聖なる池、最奥の池の4つの人工池と緑地があり、野鳥観察、四季の池のまわりでは四季折々の花・草木が楽しめます。

岩戸の錦鯉:リサーチパークから満願寺へ行く途中岩戸の水路に錦鯉が一杯飼われているところがありました。

満願寺:三浦義明の子、佐原十郎義連により建てられ、開山は大達明岩正因禅師と伝えられています。かつでは七堂伽藍の整った大きなお寺であったようです。本堂脇の収蔵庫には国指定重要文化財の木造観音菩薩像と木造地蔵菩薩像及び市指定重要文化財の木造不動明王像と木造毘沙門天像の四体が安置されており4像は寄木造、玉眼入りです。

腹切りの松:伝説によれば、衣笠城から愛馬・黒雲にのって逃れた三浦義明は、先祖の墓所へと向かいます。しかし、老松の根元、黒白2つの石の前で、黒雲はぴたりと動かなくなりました。義明は自らの運命を悟り、この松の根元で腹を切り自害してはてたということです。

清雲寺:天仁元年(1108)、3代衣笠城主、三浦義継が父為継の供養のために建立した寺です。本尊は、「滝見観音像」で、元は、為継の建立した円通寺の本尊であったものを、円通寺が廃寺になり、天保3年(1822)これまでの本尊とされていた木造の毘沙門天に代わり当寺の本尊となりました。国の重要文化財に指定されています。

薬王寺跡:三浦義澄(1127-1200)の墓所と伝わる場所です。薬王寺は、和田義盛が父義宗と叔父義澄の菩提を弔うために建立した寺でした。三浦義澄(1127-1200):父三浦大介義明のあと、兄の義宗(杉本)が死去したため、三浦本家を継ぐ。衣笠城での合戦において父義明を失うものの、その後頼朝と合流し数々の戦に武功を挙げ鎌倉初期の宿老として重きをなした。?

満願寺 不動妙王
薬王寺跡 三浦義澄の墓
清雲寺
近殿(ちかた)神社
義明山 満昌寺

近殿(ちかた)神社:大矢部の鎮守近殿神社派、三浦義村の木像(坐高35p)を祭神として祀られており、境内には、家紋を刻んだ旧石棺があります。

義明山満昌寺:建久5年(1194)、源頼朝が三浦大介義明の追善のために建立しました。義明没後14年もたつが、頼朝は挙兵のおりに老体をなげうち、鎌倉幕府開闢(かいびゃく)の礎になった無二の忠臣の霊に一宇を献じたのでしょう。その後、仏乗禅師天岸慧広が入山し、臨済宗建長寺派として中興された。義明の位牌は本尊の右手に祀られており、法名は「満昌寺殿義明禅鑑大禅定門」。

緑萌ゆ根岸森林公園と

その周辺を行く         

 日 時 平成29年(2017)4月15日

 ガイド:橋本・畑島  資料作成:橋本

 集 合 JR根岸駅

 コース:根岸駅〜白滝不動尊〜根岸森林

  公園〜地蔵王廟〜増徳院〜三吉演芸場

  〜真金町〜金刀比羅大鷲神社

  〜伊勢佐木町

白滝不動尊の広場で説明
白滝不動尊の碑
根岸競馬場跡
レストラン ドルフィン
 今月は横浜の町を歩きました。根岸から出発し、途中白滝不動、増徳院など有名神社仏閣を見ながら伊勢佐木町まで歩きました。春のぽかぽか陽気の中を、楽しく歩いていただけたと思います。

 白滝不動尊:不動堂拝殿からは根岸湾の勝景が眺望できましたが、今はその眺望も変貌しました。本尊不動明王像は、境内の懸崖の中段にあった井戸の中から出現したという伝説があります。不動堂の丘の下の滝は、高さ20メートル、幅5メートルの滝で、市内で最も見事な飛瀑で不動滝の名で呼ばれていましたが、丘陵地帯が開発されて水源を失い、現在はわずかに一筋の水が滝の名残りをとどめて落下しています。

 レストラン ドルフィン

 松任谷由美の「海を見ていた午後」という歌に出てくるレストランです。

 「あなたを思い出す この店に来るたび

 坂を上って きょうもひとり来てしまった

 山手のドルフィンは 静かなレストラン

 晴れた午後には 遠く三浦岬も見える

 ソーダ水の中を 貨物船がとおる」

 根岸森林公園

 芝生の広場を歩いていたらフクロウ使いがいて、参加者は皆そちらに気を取られてしまった。鷹匠というのはテレビでも見たことがあるが、フクロウを飼いならしているのは初めて見た。

 競馬場観覧席跡

 日本での競馬場の発祥の地はここ横浜です。最初は幕末の横浜居留地にいた外国人達が、レクリェーションとして今の中華街のあたりで1862年(文久2年)に始めたといわれています。観覧席の気品席部分、もう何年も前に競馬場は亡くなったのに、これだけが野良高くそびえています。

 地蔵王廟

 安政5年(1858)の五カ国通商条約によって開港された横浜に、居留地を中心として外国人が生活するようになりましたが、外国人のための墓地もこうした中で設けられました。地蔵王廟は、当時横浜で生活していた中国人の商人などの醵金(きょきん)により、明治25年(1892)、中国人墓地(中華義荘)に建てられたものです。

 増徳院

横浜市南区平楽にある増徳院は高野山真言宗準別格本山のお寺で海龍山本泉寺増徳院と言います。大同年間(806年〜810年)の創立といわれていますが、記録は残っていない。初 

 三吉演芸場 は1930(昭和5)年に「貸席三吉」として踊りや義太夫など習い事の発表の場として開館。もともとは銭湯を経営していて、その二階を地元の方に貸していたのが始だそうです。その後、興行師が間に入り大衆演劇の興行が始まり、(右上に)

根岸森林公園の桜
根岸森林公園にフクロウ使いが
競馬場観覧席跡
地蔵王廟
増徳院
三吉演芸場
1961(昭和36)年前後頃からは映画の上映も行い、映画と芝居が楽しめる劇場として親しまれていましたが、テレビが家庭に普及するにつれ、観客数が減少します。経営の下降や建物の老朽化のために廃業直前に追い込まれました。 そんなとき「横浜の大衆演芸を支えてきた演芸場をぜひ残したい」と「三吉演芸場を残す会」会長として立ち上がったのが歌丸師匠でした。

金刀比羅神社

1859年(安政6年)横浜開港にあたり、港崎遊郭の岩亀楼主人である岩槻屋佐吉が讃岐国象頭山(ぞうずさん) 金比羅大権現を勧請し、港崎町(現在の横浜公園の地)に祭祀(さいし)しました。1872年(明治5年)に遊廓の移転とともに高島町7丁目の海側へ遷座(せんざ)。1882年(明治15年)4月に同様の理由で真金町へ遷座します。

1923年(大正12年)9月1日の関東大震災と1945年(昭和20年)5月29日の横浜大空襲で共に被災。その度に再建されたが、現在の社殿は1988年(昭和63年)8月に更に再建されたものです。

金刀比羅神社

戸塚の旧東海道と果樹

の里を歩く

 日 時:平成29年(2017)3月15日

 ガイド:石井・三春  資料作成:三春

 集 合:JR東戸塚駅

 コ―ス:

  JR東戸塚駅…白旗神社…新見家墓地…

  武相国境の道…境木地蔵…投込塚碑…

  萩原代官屋敷?道場跡…焼餅坂…品濃

  一里塚…果樹の里…東福寺…白旗神社

  …光庵寺…平戸バス停

北天院 白旗神社
武相國境之木
北天院の天井絵
 今回は新見家ゆかりの土地である東戸塚駅から境木、旧東海道、そして途中から分れて果樹園の里に入り、平戸の公安寺まで歩きました。果樹園はシーズンオフのため果樹は見られませんでしたが、取り置きの柑橘類は買うことができました。それでは駅近くの白旗神社から見学のスタートです。

義経の白旗神社:康元元年(1256)源義経公を御蔡神と崇め創建、御社殿は天正2年天保?年に夫々改築された.白旗とは源平争乱の際、敵味方を区別するもための旗の色、平家の赤旗に対する源氏の白旗、源氏そのものを象徴する名であります。源氏の武将が祀られる「白旗」の名の付く神社は全国神社本廳傘下八十余社あり、その内「義経公」を祀る神社は八社であるが由縁は不明です。

新見家の菩提寺北天院:。開山は仏光国師*で、江戸期品濃村の領主新見家の菩提寺でした。開山は仏光国師*で、墓地には「仏光国師草鞋ぬぎの古道場」碑や寺子屋師匠笠原善右衛門の筆子塚、他道祖神、地蔵像などがあります。江戸時代、品濃村付近を領した新見正勝*(寛永19(1642 )年没)と幕末の当主新見正路(嘉永元 (1848 )年没)のお墓別の場所にあります。正路の子、新見正興*は、 はじめ伊勢守、後に豊前守と称し、安政6(1859)年、外国奉行に任じられました。万延元(1860)年1月日米通商条約批准交換の正使として(日本最初の遣米使節)。このとき勝安房(海舟)は軍艦咸臨丸艦長として随行しました。

境木立場:江戸時代、街道筋で人足が駕籠や馬を止めて休息した所。ここはいずれの道からも高台にあり、武蔵と相模の国境を示す植木がうえられております。近くには境木地蔵があります。

 投込塚:保土ケ谷から戸塚へ向かい、 旧東海道の元町から権太坂の一番坂・二番坂の急な坂道を登りきると、 やや緩やかになりその左手に投げ込み穴がありました。箱根に次ぐといわれた難所であったから、行き倒れの旅人や疲労で動けなくなった牛馬も多く、投げ捨てるように埋めた所です。

萩原代官屋敷・ 道場跡: 萩原家は、代々旗本杉浦氏の代官職でした。幕末から明治初年の当主萩原行篤*(ゆきあつ)は、 江戸で嘉永4(1851)年直心影流*の免許皆伝を得、道場を開きました。 道場には数多くの剣客が訪れ「剣客名」には、安政5(1858)年8月、天然理心流*近藤勇(後新撰組の隊長)の名が記され、慶応2(1866)年9月 までの入門者総数225名に達していたといわれています。

 

 

東福寺鎌倉円覚寺の末寺で、本尊は釈迦如来で、行基作といわれています。 開山は僧養谷ですが、創建年は未詳。―里塚の近くに、「下馬薬師 」の異名をとった薬師堂があつたといわれています。 この薬師堂は、通行の馬が薬師を恐れて暴れるため、落馬事故が絶えず、いつしか東福寺 に移されたといいます。昭和16年の権太坂の改修工事や昭和36年の宅地造成期に出て来た多数の白骨を、この東福寺が引き取り埋葬し、供養碑として「無量光佛」が昭和36年8月に建立されました。

源頼朝の白旗神社:東福寺からそのまま山道を歩くと白旗神社につきます。乾元元(1302)年の勧請と伝えられ、明和6(1769)年、鶴岡八幡宮別当相承院より頼朝の遺髪を受けて神体にしたと「東福寺文書 」に記されています。

投込塚 境木地蔵
品濃一里塚 萩原代官屋敷・道場跡
福寿観音
東福寺
白旗神社
光安寺
品濃一里塚:木地蔵から焼餅坂を降りきり、約150m先の右側の木立の中に一里塚があります。慶長9(1604)年2月、徳川幕府は、大久保石見守*を工事の総奉行に任命し、五街道の整備を命じました。併せて当時曖昧であった駄賃銭を決めるために、江戸日本橋を起点とした距離がわかるように、1里ごとに道の両側に塚を作りました。塚の上にはエノキなどが植えられ、遠くからも見えるようにしました。これが一里塚です。

福寿観音と福原政二郎氏:「東戸塚」駅の開設や「東戸塚」駅周辺の開発に尽力した人物が福原政二郎氏です。彼は「東戸塚」駅開設に必要な費用を提供したほか、その後の街づくりでも主体的に関わりました。こうした歴史を記念し、「モレラ東戸塚」には「東戸塚開発記念碑」が建てられているほか、福原政二郎氏が建立した「福寿観音」と「新戸塚観音堂」が東戸塚の東と西の高台から街を見守っていなす。

光安寺と植松寺(じきしょうじ)他本尊は阿弥陀如来(伝源信作)で、天正18 (1590)年に真阿存公上人が開基創建しました。 光安寺の末寺であつた植松寺 (明治9年廃寺願―田中家文書)、光照院、地蔵院(有華寺)の3か寺は明治から昭和にかけ廃寺となり光安寺に併合されました。この為、植松寺の本尊であつた正観世音菩薩 (伝尼将軍の守本尊)や光照院の閻魔王及十王像(閻魔堂)、 舟乗地蔵尊、又地蔵院にあった市内最古と言われる二十三夜塔 (寛文10(1670) 年)も移設されており見るべきものは多い。

又、門前には正観世音菩薩(天明8(1788)年)の石塔や、植松寺と刻まれた石塔(享保3(1718)年)等も移されています。

絶景と歴史の逗子・小坪

を訪ねて

 日 時:平成29年(2017)2月15日

 ガイド:橋本・伊藤  資料作成:橋本

 集 合:JR逗子駅

 コ - ス : IR逗子駅-バス-小坪寺〜海前寺〜

  六角井〜和賀江島〜住吉神社〜住吉城址

  〜小坪小学校区コミュニティセンター

 (昼食)〜天照大神宮〜大崎公園〜披露山

  〜逗子駅

小坪寺(しょうへいじ)
海前寺
和賀江島 由比ガ浜を望む
道祖神 供養塔 群
  

 今回は一年で一番寒い時期の例会ですので、昔から温暖の地として開けた逗子小坪の町を歩きました。

小坪は海岸沿いに鎌倉と接しており、道路の向は鎌倉という場所があります。そのため、住吉城址をはじめ六角井、など遺跡が多く残っています。しかし海の様子は、昭和40年代初めに海岸の埋め立てによるマリーナやマンションの建設で、昔とは大きく変わってしまいました。

 小坪寺(しょうへいじ)

 浄土宗のお寺で傳法輪山二尊院小坪寺といいます。明治40年(1907年)に報身院から出火した火事で隣接する香蔵寺も焼失しましたが、明治42年(1909年)に、行念上人が鎌倉光明寺の末寺であったこの両寺院を合併し、小坪寺として再興・創建しました。ここは「小坪小学校」の前身でした「鷺浦学舎」と今は字がよく読めなくなっている看板が掛かっています。

 海前寺

供養山三宝院海前寺(時宗)は、1376年(永和2年)頃、小坪漁民の念仏道場として建立されたと伝えられています。開山は厳阿。本尊は阿弥陀三尊。本堂の背後は住吉城の一部となる切り立った丘陵が屏風のようにそびえています。

 トビ 

 海前寺から六角井へ移動中、電信柱の上に大きな体に鋭い目をした茶色っぽい鳥が止まっていました。ややズームで撮影しましたが、トビだと思いますが、違うかもしれません。撮影情報1/1600  f/2.8 30.5 mm ISO 125 デバイスCanon PowerShot G16

 六角井

この井戸は、鎌倉十井のひとつです。井戸端は八角あり、そのうちの六角が鎌倉分、二角が小坪分といわれています。別名、矢の根井戸とともいい、源為朝が伊豆大島から射た矢がこの井戸に落ち、やじりが残ったところから、その名がついたといわれています。。

 住吉神社

正覚寺の裏山にある住吉神社は、三浦氏の山城「住吉城」の鎮守として創建されたといわれている。

住吉城

永正9年(1512)8月、早雲の軍勢は、三浦氏の本拠・岡崎城を急襲し、 時の当主・三浦道寸(義同)は、ついに支えきれず、この住吉城に逃れました。奮戦むなしく、ここ住吉城でも戦いに敗れ、新井城 (三浦市)に逃れました。

殿の井戸(とんのい)

「殿の井」、あるいは「大井戸」と呼ばれ、鎌倉時代初期の御家人・小坂太郎光頼の屋敷内にあった井戸といわれています。この辺りは「殿の内(とんのうち)」という地名であり、屋敷の主・小坂太郎光頼は、吾妻鏡によると、鎌倉二代将軍頼家が小坪の海辺を見て回った際、笠懸が行われ、小坂太郎光頼が御食事を用意したということが書かれています。

 天照大神社 (てんしょうだいじんじゃ)

御祭神:天照皇大神  「相模風土記」に「神明宮、村の鎮守なり…仏乗院持」とあり、鎌倉円覚寺塔頭の「黄梅院文書」康安二年(一三六二)当院預小坪郷田畑割付書に「小坪神明神畑一枚」とあります。これすなわち当社のことで、室町時代初期すでに神領を有していました。

六角井
トビ 
住吉神社より江ノ島富士を望む
殿の井
天照大神社
大崎公園より逗子マリーナを望む
披露山公園の河津桜
披露山より葉山を望む

新春恒例 

鎌倉七福神めぐり

 日 時 2017年1月11日(水)10時〜

 集 合 JR北鎌倉駅

 ガイド 前島・石井 資料作成:前島  

 コース JR北鎌倉駅〜〜浄智寺〜鎌倉

  八幡宮(旗上弁財天社)〜宝戒寺〜

  妙隆寺〜本覚寺〜御霊神社〜長谷寺

              (解散)

 

〔浄智寺の福神〕布袋尊
.浄智寺曇華殿
〔巨福呂坂の水道道
八幡宮弁財天

   明けましておめでとうございます。

 今年もまた「七福神めぐり」の時期がやってまいりました。この数年間同じコースを回っていますが、これは体を作るには何度も食事が必要なように、心の糧として新年の七福神回りは心を和ませ、はぐくむ上で大変意義のあることではないかと思います。七福神をお参りしてこの一年が幸多い素晴らしい年となるよう願いましょう。

七福神の歴史: 庶民の身近にあって暮らしに幸運をもたらす七柱の福の神「七福神」が、現在のような形で人々に定着したのは江戸時代中頃。浮世絵にも宝船に乗った七福神が描かれ、正月には初詣でを兼ねての七福神詣でが庶民の間で盛んに行われました。

それまでは三福神だったり五福神だったり、神々も一定ではなかった様ですが、享和年間(1801〜3)には恵比寿、大黒天、毘沙門天、弁財天、布袋尊、福禄寿、寿老人と、今の顔ぶれに落ち着いたといいます。実はこの七柱のうち恵比寿を除いて六柱はインドや中国など海の向こうからやってきた神々。国際色豊かというかエキゾチックなメンバー構成なのです。

〔浄智寺の福神〕布袋尊:布袋様は、中国の禅宗の僧侶がモデルで、肥満体で、太鼓腹でにこやかな顔をして、豊かなくらしと円満な家庭などの福を授ける守護神です。

〔鎌倉八幡宮の福神〕弁財天様:七福神の中で唯一の女神さまで、インドの水の神です。川の水がさらさらと流れる音色から、音楽の神とも言われています。御利益は、子孫繁栄、智慧、弁才(音楽や芸術)などです。

〔宝戒寺の福神〕毘沙門天様:毘沙門天は、四天王の一仏で、別名「多聞天」といい、七福神の中で、唯一の武将の姿をしていて、右手に宝棒、左手に宝塔、足の下に邪鬼天の邪鬼を踏みつけています。七福神では、病魔退散、知恵と勇気の神様として信仰されています。

〔妙隆寺の福神〕寿老人様:寿老人は、中国の道教が起源の神様で、福禄寿と同じく星の化身で、にこやかな微笑みをたたえ、手には巻物を括り付けた杖、そして団扇や桃などを持ち、鹿を従えた姿が一般的に知られています。団扇は難を払い、桃は長寿のしるしで、鹿もまた長寿の象徴です。長寿延命、富貴長寿として信仰されています。「欅一本造りの寿老人」です。

〔本覚寺の福神〕恵比須様:七福神中で唯一の日本の神様です。いざなみ、いざなぎの二神の第三子といわれ、満三歳になっても歩かなかったため、船に乗せられ捨てられてしまい、やがて漂着した浜の人々の手によって、手厚くまつられたのが、信仰のはじまりと伝えられています。左手に鯛をかかえ、親しみ深い姿の漁業神です。商売繁昌の神様としても厚い信仰があります。

八幡宮源氏池のそばの白梅
宝戒寺毘沙門天
本覚寺 夷
妙隆寺 寿老人
 御霊神社 福禄寿
長谷寺 大黒天
御霊神社の福神〕福禄寿様:福禄寿は、名前は、幸福の福、身分をあらわす禄、寿命を表わす寿の三文字からなり、中国、道教の長寿神。南極老人星の化身であり中国の村や町に住み、人々の信仰を集めたといわれる仙人です。長い頭、長い顎鬚、大きな耳たぶをもち年齢 千歳という。長寿、幸福の徳を持ち、鶴と亀を連れて、左手に宝珠、右手に巻物を括り付けた杖をもつ姿が特徴です。招徳人望の神様として信仰されています。

長谷寺の福神〕大黒天様:大黒天はヒンズー教のシバ神の別名で、仏教に入り仏法守護神となりました。大国主命と神仏習合したものです。一度仏となりましたが、人々に福徳を授けるために再びこの世に現れたといわれます。

大地を掌握する神様(農業)でもあります。大きな袋を背負い、打出小槌をもち、頭巾をかぶられた姿が一般によく知られていて財宝、福徳開運の神様で、「出世開運授け大黒天」として信仰されています。

 長谷寺の福神〕大黒天

女人鎌倉歴史の小径を巡る

 日 時 2016年12月21日(水)10時〜

 ガイド 前島・石井 資料作成:前島  

 集 合 北鎌倉駅

 コース JR北鎌倉駅〜東慶寺〜阿仏尼墓〜

   英勝寺〜鶴岡八幡宮〜太平寺〜妙本寺

   〜JR鎌倉駅

 

   例会終了後交流会を実施

 場所:和民鎌倉店 

 年に一度の交流会が例会終了後に行われました。会員、参加者合計40数名が参加して、にぎやかにまた和やかに楽しい2時間を過ごしました。

東慶寺開山覚山尼 賛歌 四賀光子
東慶寺 境内 紅葉が美しい
東慶寺 天秀尼墓 当山二十世 後醍醐天皇皇女 用堂女王墓
東慶寺:北条時宗の妻、覚山尼ゆかりの駈入寺北条時宗の妻、覚山尼(かくさんに)が建立した尼寺として格式を誇った東慶寺は、縁切寺法(えんきりじほう)を定めた駈入寺としても知られ、離婚請求が認められるようになった明治6年(1873)まで存続したといい、その後は住職も男性に代わり尼寺としての長い歴史を閉じました。寺の裏の杉木立に歴代住職の墓が立ってます。その中には豊臣秀頼(ひでより。秀吉の次男。母は淀君)の娘で家康の命で入寺した第二十世天秀尼(てんしゅうにのものと伝わる墓があります。

堀主水(もんど)事件:寛永16年(1639)といえば、すでに徳川三代将軍家光の時世で、ある夜、人目を忍ぶように東慶寺を訪れた一人の武士が、妻子を住職に預け、そのまま逃げるように立ち去ったのです。この武士は、会津若松四十万石の領主加藤明成に仕える家老で、堀主水(もんど)でした。明成は暗君(あんくん。愚かな君子)で、主水が諫めても聞き入れない。ついに主水は合津城を妻子を連れて抜け出し、高野山に向ったのです。その時、鎌倉に立ち寄って妻子を東慶寺に託したのです。おこった明成は、追手を鎌倉に差し向け、主水の妻子を探し出して殺そうとしたのです。その時明成のよこした武士達の前にたちふさがったのが天秀尼だったのです。加藤家からの要求をはねつける一方、天秀尼は「この寺へ駈け入ったものは、これまですべてを救ってきた。加藤明成があくまで横車をおそうとするなら、明成を滅ぼすか、この寺を失うか、どちらか決着がつくまで、私は後へは引かぬ」と云ったらしいのです。明成は憎い主水を捕まえて首を斬ったが、その妻子をどうすることもできなかったのです。それどころか、四年後には領地を取り上げられ、明成嫡男明友に、わずか一万石があたえられただけなのです。

 英勝寺:徳川家康の側室英勝院(お勝局が創建)寺はお勝局が水戸家を創始した徳川頼房(よりふさ。家康の十一男)の養母だったことから、代々、水戸家によって守られ、住職には姫君が選ばれました。家康の没後、お勝は剃髪出家して英勝院と号し、先祖太田道灌の屋敷があったという相州鎌倉の扇ヶ谷に、寺を建立したいと望んでいたので、寛永十三年(1636)、将軍家光から許しが出て、英勝寺が建立されました。初代住職には、水戸頼房の次女小良(こら)が入山し、玉峰清因(ぎょくほうせいいん)と号し、幕府から寺領として相州三浦の地池子に三百石贈られました。英勝院が病床につくと、家光みずから見舞いに来たといわれ、寛永十九年(1642)に亡くなると、亡骸は鎌倉に送られ英勝院に葬られました。その後、歴代住職には水戸家の姫君を迎えたので、水戸家御殿と呼ばれ、凛とした品格を保っています。

静御前の舞: 文治二年(1186)の四月八日には、頼朝と政子が鶴岡八幡宮に詣で、ついでに静御前の舞を鑑賞しました。ついでというが、実は静かの舞には、政子がかなり執着していました。十六の年に、後白河法皇の御所に召されたのです。当時の京都は日照り続きで、人々の悩みはひとかたでないのです。そこで若くて美しいといわれる白拍子が数多く召され、竜神に舞を奉納することになったのです。 やがて静の番が回ってきて半ばまで舞が進んだと思うころ、にわかに黒雲が湧き、やがて豪雨がきたのです。それにより法皇から「日本一」の称号を賜り、静は京中の人気者になったのです。

鎌倉尼五山筆頭寺太平寺 清岳尼

 鎌倉五山といえば、建長寺を筆頭に、円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺でこれと並んだ鎌倉尼(かまくらに)五山と称する寺がありました。その名は大平寺・東慶寺・国恩寺・護法寺・禅明寺です。そのうちで今も残っている寺は東慶寺だけですが、それも現在では尼寺ではないのです。さて、時代も過ぎ南北朝。室町時代を経て多くの英雄が各地方によって勢いをふるい対立する動乱期に入っていた頃に何代目かの住職となったのは、ぞくに小弓(おゆみ)御所と呼ばれた足利義明(二代古河公方の政氏の子)の娘の清岳尼だったのです。その清岳尼が住職の時に安房の豪族里見義弘が鎌倉に攻め入り、本尊の木造聖観音菩薩立像と、清岳尼を奪い還俗(げんぞく。僧・尼が普通の俗人になる)させて妻としてしまうという事件が起きました。実はこの二人は幼いとき、双方の父によって婚約させられていた仲だったのです。ところが父義明は小田原北条氏と戦って討死、義明の娘たちは北条氏康によって姉は太平寺に妹は東慶寺に入れられ、当然義弘との婚約は破棄されたのです。しかし義弘はあきらめることなく、弘治2年(1556)に鎌倉を攻め、奪い返したのです。住職を失った太平寺は氏康によって廃絶となり、持ち去られた本尊は清岳尼の妹が十七世旭山尼となっている東慶寺に氏康の命により返還され、観音堂を建て、太平寺の名残として泰平殿と称して木造聖観音菩薩立像を安置しました。

英勝寺で説明を聞く参加者
鶴岡八幡宮舞殿
太平寺跡 鶴岡八幡宮舞殿から本殿を望む
妙本寺 蛇苦止堂
一幡の墓    妙本寺
妙本寺 比企一族の墓
四代将軍藤原頼経の夫人の墓妙本寺
交流会
交流会
妙本寺:若狭局(わかさのつぼね)の執念 

 妙本寺が建つ比企谷(ひきがやつ)は、北条氏に一族を滅ぼされた比企能員(よしかず)の屋敷があったところです。当時二代将軍源頼家の外戚として勢力を増してきた能員は、頼家をかついで北条氏を滅ぼそうとしましたが、政子の父時政はまず先手を打ち、能員を仕事と偽って自邸に招き謀殺、すかさず比企の屋敷に兵をさしむけ、頼家の子一幡(いちまん)はじめ一族皆殺しにしてしまったのです。 一人残った末子の比企大学三郎能本は日蓮に帰依し、文応元年(1260)、一族の菩提を弔うためにこの寺を建てました。参道からはずれ、ひっそりとした、高い石段を上がりつめた正面に若狭局をまつる蛇苦止堂(じゃくしどう)があります。かたわらに、屋根が葺かれ、井戸が一つあります。これを蛇形(じゃぎょう)の井戸といい、北条政村の娘にあらわれた蛇身を祀ったものと伝わります。 わが子(能員の娘)を非業(若死)に殺された女人の妄執(もうしゅう。執念)は八百年後の今日まで、尽きることなく続いているのではないでしょうか

交流会
交流会

 毎年12月の月例の後は会員とお客様との交流会が設けられております。今年も例年通り、鎌倉の和民で盛会のうちに行われました。お客様同士、あるいはお客様と会員との話し合いが和やかなうちに行われました。ふだんはあまり話ができない人同士が、お酒の力も手伝ってかなり会話が進んでいたようです。この会を通じて人とのつながりがより強く、また広くなることを願っております。

逗子海岸での流鏑馬⇒

     ?

潮騒の歴史とロマンの 逗子を歩く

日 時:平成28年(2016)11月19日

ガイド:伊藤 前島  資料作成:前島

コ - ス : JR逗子駅?田越川そぞろ歩き〜六代御

 前の墓〜赤手蟹生息の小川〜蘆花散歩道〜郷土資    

 料館〜野外活動センター(昼食)長柄桜山古墳

 説明〜蘆花・独歩記念碑(やなぎ屋跡)〜富士見橋

(田越橋)〜逗子海岸散策〜浪子不動・不如帰の碑

 〜逗子開成学園(屋上古墳群他眺望)・遭難の碑

 〜東郷橋〜亀岡八幡宮(解散)

流鏑馬の日の仮装行列
毎年7月の命日に演奏される
六代御前の墓といわれる
蘆花記念公園 相模灘の落日の碑

流鏑馬(やぶさめ: 流鏑馬と言えば鎌倉八幡宮で行われるものが有名ですが、じつは神奈川県内ではかなり各地で行われており、逗子の流鏑馬もその一つです。

〔六代御前の墓伝説地〕〜伝平清盛の嫡流終焉の地:逗子市史跡〜「田越川」を背にして中に入るとすぐに「六代御前最後之故址」という石碑があります。その奥にはそこだけ独立して、小高い丘があり小さな森のように木が茂っています。六代御前(平六代(高清))は、平維盛の子で平清盛の曾孫(ひまご)にあたります。六代は、壇ノ浦の合戦後、源頼朝に命じられて平氏残党の探索をしていた北条時政によって捕らえられますが、文覚上人の助命嘆願によって助けられました。その後、出家して「妙覚」と名乗っていたと言われます。

7月26日は、六代御前の命日になります。毎年、逗子市の桜山氏子会主催で、命日には墓前で、六代御前供養祭が行われます。(入場無料)毎年、神武寺住職の法要と護摩供養の後に、平曲が演じられます。有名な荒尾努氏の平家弾き語りの、六代被斬では、父を思う六代御前の姿が涙を誘うといわれます。

〔蘆花散歩道〕 蘆花散歩道の入口には、蘆花記念公園があります。昭和59年(1984)の市制施行30周年を記念して、逗子の名を広く世の中に伝えた近代の文豪、徳冨蘆花ゆかりの地に設けられた公園です。桜山の緑を背景に、眼前に逗子湾が広がるこの地は、自然に恵まれ静かな佇まいを留めています。公園内には、郷土資料館への道があり、通称「蘆花散歩道」と呼ばれ、辻々に「自然と人生」の「湘南雑筆」から、1月から師走まで各月の作品一つを選び、ほぼ冒頭部分を記した立て札があり、最後に「相模灘の落日」の立て札を読み終わると「逗子市郷土資料館」の門にたどり着きます。

 〔逗子市郷土資料館〕大正元年(1912)に横浜の実業家の別邸として建築され、大正6年から徳川宗家第16代当主徳川家達に所有が移り、その後2回ほど所有者が変わった建物です。館内には、逗子ゆかりの文学作品に関する展示のほか、実際に市内で使われていた調度品などの民俗資料、市内の遺跡から出土した資料などがたくさん展示されています。資料館から眺める逗子湾・江の島、天気が良ければ、江の島の奥に遠く富士山までもが見えるという絶好の、ビュースポットだといえます。

 〔蘆花・独歩ゆかりの地〕 逗子市桜山8の富士見橋に近い田越川沿いには「蘆花獨歩ゆかりの地」の碑があります。ここは明治の文豪徳冨蘆花、国木田独歩が一時期を過ごした貸し家業「柳屋」がかつてあったところです。

碑は石渡嘉兵衛の跡を継いだ長男喜市によって石渡嘉兵衛50回忌に当たる昭和36年(1961)に建てられました。

 逗子海岸浜辺の南端、渚(なぎさ)橋近くに「太陽の季節記念碑」があります。都知事を務めた石原慎太郎さんがこの地で暮らし、学生の時に書いた芥川賞作「太陽の季節」を記念する石碑があります。高さ2・2メートル。「太陽の季節 ここに始まる」。自身の筆による文字が刻まれ、大阪万博の太陽の塔で知られる故岡本太郎の、太陽のモニュメントが輝いています。

 そしてもう一つ、お寺の前には「さくら貝の歌」歌碑があります。昭和二十四年(1949)七月発表の、「さくら貝の歌」は、女性の心をとらえました。八洲秀章は病で失った恋人の面影を抱いて鎌倉に住み、浜辺で見た光景に託して、「わが恋の如く悲しさやさくら貝かたひらのみのさみしくありて」の和歌を作りました。

 これを逗子町役場に勤める友人の土屋花情に示して、作詞を依頼して、曲をつけました。「さくら貝の歌」の成功につづき、八洲秀章は「あざみの歌」「マリモの歌」と次々とヒットを飛ばしました。

  美(うるわ)しき 桜貝一つ

    去(さ)りゆける 君にささげむ

    この貝は 去年(こぞ)の浜辺に

    われ一人 拾(ひろ)いし貝よ

昔アカテガニが生息していた
資料館からは晴れた日ならばこの景色がみられる
郷土資料館の内部
石原新太郎の太陽の季節を記念して募金に寄り建てられた
流鏑馬の日の仮装行列
ホトトギスの碑
高養寺 浪子不動
桜貝の碑

歴史講座

「奥山金右衛門・大坂陣(冬・夏) の記憶」

  日 時  2016年10月30日(日)1時30分 

 場 所  逗子市 福祉会館

       (逗子市桜山5−32−1)

 主 催  逗子ボランタリーガイド倶楽部

 講 師  伊藤一美先生 (当倶楽部顧問)

講座内容 :

 「大坂夏・冬の陣」。戦国時代が終わろうとしていた、その総決算ともいえる「内戦」。「混沌」から「太平」の世に移行する時期。「行き過ぎたりや・・・」と端唄に歌われた時代。一人の武士が参陣していた。その名は「奥山金右衛門」。後に下館藩家老職となり、家は現代まで続く、その先祖であった。主君石川主殿頭忠総とともに大坂城北の博労口から舟で城攻めに入る。南側は、あの有名な「真田丸」だ。飛び散る鉄砲の中をくぐり抜け、首級をあげた。その刀も今に伝わる。家康側近からも手柄をほめられている。江戸初期に記録された実戦記から「大坂夏・冬の陣」の記憶を、これまで未公開の新出史料から垣間見た。主君からの手紙も紹介された。

秋陽の勇将和田義盛の 里を歩く

日 時:平成28年(2016)10月19日

ガイド:石井・山中 資料作成:山中

コ - ス : 京急三浦海岸駅〜来福寺〜

   日枝神社わくり井戸〜五劫寺〜

若宮神社〜初声市民センター

(昼食)〜白旗神社〜天養院

和田義盛旧里碑〜和田城址〜

  和田バス停

今回ルートマップ

來福寺
來福寺朝の挨拶1班
來福寺朝の挨拶2班
日枝神社
  

 今回は鎌倉時代初期の武将和田義盛(1147〜1213年)の所領だった初声町和田を中心に、義盛のゆかりの地を歩きました。

和田山来福寺 浄土真宗

 初声町上宮田のさほど高くない台地に挟まれた場所にある。創建は建永年間(1206〜1207)。堂々と高く構えた銅葺きの本堂に、三浦氏の家紋を頂く。山門の傍らに親鸞ゆかりの「一光一仏」の碑が建っている。本尊は阿弥陀如来。鹿穴(ししあな)の寺で親しまれている、

和田山来福寺 浄土真宗

 初声町上宮田のさほど高くない台地に挟まれた場所にある。創建は建永年間(1206〜1207)。堂々と高く構えた銅葺きの本堂に、三浦氏の家紋を頂く。山門の傍らに親鸞ゆかりの「一光一仏」の碑が建っている。本尊は阿弥陀如来。鹿穴(ししあな)の寺で親しまれている、

日枝神社

 初声町高円坊の木々に囲まれた小高い丘の上にあり、三浦の田園風景が一望でき、一部海岸線も望まれる。鳥居越しに富士山を望める、眺望豊かな場所である。祭神は「国常立尊(くにとこたちのみこと)、天照大神、宇迦之魂命(うかのみたまのみこと)。文禄年間(1592〜96)高円坊の住人、川名利右衛門の創建と伝えられている。

和田朝盛碑

朝盛は和田義盛の孫にあたる人物で『吾妻鏡』にも登場します。文面からは将軍実朝のお気に入りであったことがうかがえます。弓はうまかったようですが、文化人的武人であったのでしょう。

旧街道の庚申塔群

日枝神社から五劫寺に向かう十字路及び県道沿いに、庚申塔類をまとめて保存されている。

五劫寺跡

五劫(ごこう)寺は廃寺になっているが「高円坊の寺」として親しまれている。義盛もよく参詣したといわれるが、今は粗末な冠木門(かぶきもん)があるだけで、後ろに墓地が見える。

わくり井戸

 『天平元年(729)僧行基当国行脚のみぎり、 塔の台に来たり給ひ、その麓の西にあたりて、 湧きいずる泉に感じたまい、延命地蔵菩薩の尊像を彫刻し、 塔の台に一宇を建立して、これに安置したまへり。−古文書より−

若宮神社

祭神;大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)天照大神、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)、国常立尊(くにのとこたちのみこと)

祭神の大鷦鷯尊は仁徳天皇のことで、応神天皇の第4子にあたり、「若宮」と称したのである。永正2年(1505)三浦道寸と北条早雲との合戦時、社宝・記録など焼失、由緒沿革は不明。寛文2年(1662)に再建、その後、貞亨3年(1686)に社殿を修復し、寛政8年(1796)に拝殿を再建した。

今回比しぶりに三浦を歩きました。鎌倉時代の初期和田氏は三浦半島においては、かなりの権力を有していたことがわかった。この時代は土地の名前で豪族が呼ばれていたということで、今でもその名が残る大庭や梶原との領地が接している中で健闘した豪族であったとおもう。

和田朝盛碑
旧街道の庚申塔群
五劫寺跡
わくり井戸
若宮神社
五劫山天養院宝泉寺
大泉寺
和田義盛旧里碑
和田義盛旧里碑

大正10年10月、三浦氏の末裔、三浦英太郎男爵が、和田義盛を偲んで建てた碑。

このあたりから、平塚農高初声分校及び大泉寺、安楽寺跡あたりを含めた一帯が、和田義盛が館を構えていた所と伝えられている。付近には木戸脇、出口、唐池など館を思わせる地名が残っている。

大泉寺 日蓮宗、山号は天王山

寺の縁起では応仁元年(1467)、当地和田に住んでいた内匠(たくみ/宮廷の工匠)長叉という人が日蓮上人の教えを受け改宗し、日泉上人を開山とし、自ら開基となり、創建したと伝えられている。

門の右側には寛政5年(1793)に建てられた大きな題目塔があり、当時の住職日静上人の代に寺小屋を開いており、その弟子たちが亡き日静上人を顕彰して立てた筆子塚として建てたもの。墓地には入江新田の開拓工事を行った、山田惣左衛門父子の墓がある。

学園都市花とせせらぎの 道を歩く

 日 時:平成28年(2016)9月21日

 ガイド:橋本・三春 資料作成:三春

 コース:

 中湘南台駅西口〜バス停慶応大学〜

遠藤笹窪谷〜慶應義塾大学藤沢キャン

ス・湘南藤沢中高〜小出川の彼岸花

〜腰掛神社〜茅ケ崎里山公園〜寶泉寺

〜御嶽神社〜遠藤由来の碑〜文覚上人

供養碑〜バス停慶応大学(解散)

1.遠藤笹窪谷
2.慶應大学
4.小出川の彼岸花
3.慶應大学藤沢キャンパス
 今回は藤沢市遠藤を訪ねました。ちょうど九月の第三水曜日はお彼岸に当たり、この時期に咲く小出川の彼岸花を見ながら散策を楽しみました。

 1.遠藤笹窪谷 谷戸とは、丘陵地の谷あいの低地のことです。河川の源流域になっている場合も多く、沼などの湿地やそこを開発した水田に豊かな生態系が保たれています。

 2.慶應大学湘南藤沢キャンパス(SFC)のシンボルモニュメント。卒業生である洋画家、清川泰次氏の作品。

 3.SFC 本部キャンパス、アルファ館。建物の名前はすべてギリシャ語になっている。

4.5.小出川の彼岸花 小出川の河岸は「花とせせらぎの道」として整備され、上流川部分には紫陽花が、下流側には彼岸花が植栽され、それぞれの花期に美しい景観を見せてくれます。ちょうど満開の一歩手前ぐらいで見ごろの彼岸花を楽しみながら小出川の土手を散策。私たちは途中で引き返しましたが、この赤いい絨毯は茅ヶ崎まで続いているとのことです。

.腰掛け神社 ご祭神: 日本武尊/倭健命 建:はっきりした時期は不明 −−     由緒:日本武尊ゆかりの神社。社名は日本武尊が東征の際に、この地で石に腰掛けて、大山を眺めて休憩したという伝説に由来しています。

7.實泉寺: 曹洞宗の寺院(禅寺)。山号は「玉雄山」。「萩の寺」としても知られています。修行僧に食事、坐禅などの時刻を伝える雲板は市の指定重要文化財となっています。また、境内の森は「ふるさとの森」として藤沢市指定をうけています。

 8.御嶽神社:祭神は須佐之男尊(すさのおのみこと)など九神とされる。遠藤村の鎮守社。神仏習合を受けて「御嶽大権現」といわれた時もある。ご神体は新編相模の国風土記稿によれば「運慶作長一尺二寸木像」とあります。

9.文覚上人供養碑:文現在の碑は明治10年の県の調査後、発掘した五輪塔と共に内田重左衛門が再建したものといわれます。供養碑の前にある額に入った書は、今回当倶楽部顧問の伊藤一美先生によって初めて読み解かれ、神護寺領内における鵜飼に関する訴訟にたいして、文覚上人が朝廷に送ったと思われる手紙であることがわかりました。

出川の彼岸花
6.腰掛け神社と腰掛け石
 7.寶泉寺
8.御嶽神社
9.文覚上人供養碑

開港150年横須賀今昔を歩く

日 時:平成28年(2016)7月20日

 ガイド:山中・畑島 資料作成:山中

 コース:

 京急横須賀中央駅〜人文博物館〜

 中央公園〜龍本寺米が浜通り〜

 三笠公園〜戦艦三笠〜どぶ板通り

 〜ヴェルニー公園(小栗上野介・

 ヴェルニー胸像、正岡子規の

 句碑) 解散後汐入駅or横須賀駅

 横須賀市自然・人文博物館  栗本鋤雲(左)  小栗上野介忠順(右)
   中央公園 平和のモニュメント
 岩野泡鳴歌碑 「田戸のうみぬし」
 

 今回は横須賀中央駅から中央公園、龍本寺、三笠園、ヴェルニー公園と横須賀の代表的な施設を巡りました。逗子や横須賀の住人にとっては何回も行ったことのある場所ですが、訪ねるたびに何か新しい発見があります。

 小栗上野介忠順 文政10(1827)〜慶応4(1868)年 三河以来の旗本という名家の出身に加え、頭脳明晰であったことから、若くして勘定奉行など要職に登用された。安政7(1860)年日米修好通商条約批准のため、アメリカ海軍軍艦ポータハン号で正史とともに渡米した。帰国後は外国奉行、勘定奉行、軍艦奉行などを歴任、対馬砲撃に対するロシアとの折衝、フランス士官の招聘などにつくす。横須賀製鉄所の創設し、我が国の近代造船事業の発展の礎を築いた。しかし、慶喜の恭順に反対して、志半ばで群馬の地に引きこもる。幕臣であり新政府軍との主戦論者であったことから、官軍側からのあらぬ疑いを掛けられ、罪なくして現在の高崎市倉渕町で斬首された。

 栗本鋤雲(じょうん) 文政5(1822)〜明治30(1897)年

 名は鯤(こん)、幕臣で医師、箱館奉行組頭を経て昌平坂学問所の頭取、さらに目付に登用される。横須賀製鉄所の御用掛となり小栗上野介とともに横須賀製鉄所の建設に尽力しました。後に外国奉行となり勘定奉行、箱館奉行を兼任。慶応3(1867)年パリ万博時、徳川昭武の補佐として渡仏、日仏親善に尽力した。帰国後、新政府への出仕を断り、明治5(1872)年以降、ジャーナリストとして活躍した。

 岩野泡鳴歌碑「田戸の海ぬし」

 「田戸に山崎 また堀の内 走り水にも また大津にも春のうしほは 朝ゆふ寄せて  けむり霞の 奥より見ゆる 淡き猿島 島とは云へど 田戸のおやぢが にこそ似たれ」島崎藤村、田山花袋、徳田秋声、正宗白鳥と並ぶ自然主義文学の5大作家の1人。この詩は、田戸の海坊主といわれた老爺の猪之助という漁師とそれをとりまく情景を、俗謡風の語を用いて、七七調にうたったもの。 

 猿海山龍本寺日蓮宗 土地の人からは昔から「米が浜のお祖師(そっす)様」と呼ばれて親しまれてきました。江戸時代の伽藍建築を残す本堂、大扁額「聖人垂跡(すいじゃく)」は明治、大正にかけての書壇の巨匠中林梧竹による。周囲の猿と龍の彫刻は厳かである三笠公園

 三笠公園は「日本の都市公園100選」「日本の歴史公園100選」に選ばれており、テーマは「水と光と音」。音楽に合わせて舞う噴水(夜にはライトアップ)や、ダイナミックな壁泉、高さ18メートルのモニュメントなどが多数点在し、芸術・歴史を肌で感じることができます。また、日露戦争で活躍し、世界三大記念艦の一つである「三笠」が保存されており、三笠の後ろには東京湾を行き交う船や猿島も望めます。

 ヴェルニー公園

 幕末期に横須賀製鉄所の建設に尽力したフランス人技師ヴェルニーにちなんで名づけられた、フランス庭園洋式を取り入れた公園です。春と秋にはフランス品種を中心にしたバラが美しく咲き誇り、「ローズフェスタ」が行われます。

 公園内には横須賀製鉄所建設を推進した小栗上野介とヴェルニーの胸像があり、当時建造されたドライドックが残る米海軍横須賀基地の方向を臨んでいる。

 碑の句は、明治21(1888)年8月、正岡子規は夏期休暇を利用して、友人とともに汽船で浦賀に着き、横須賀・鎌倉に遊んだが、その時、横須賀港内に連なる帆柱の印象を読んだもので、句集「寒山落木」に収録されている  

   『横須賀や 只帆檣の 冬木立』

 今回はヴェルニー公園で解散、それぞれ京急汐入とJR横須賀駅に分かれて帰途についた。

 猿海山龍本寺 
 日蓮が籠ったといわれる岩窟 
 料亭小松の焼け跡 
三笠園から戦艦三笠を望む 像は東郷平八郎
三笠園 噴水広場 時間によって噴水ショーが見られる  三笠園 モニュメント
戦艦三笠甲板から撮影
 ヴェルニー公園から港を望む
 正岡子規の句碑
ヴェルニー公園で解散

夏めく

大倉山公園周辺遊歩

日 時:平成28年(2016)6月15日

 ガイド:橋本・石井 資料作成:橋本

 コース:

  大倉山駅〜大倉山記念館〜

  大倉山公園梅林〜大乗寺〜

  師岡熊野神社〜大曽根第二公園

   〜熊野神社市民の森〜杉山神社

   〜獅子ヶ谷横溝屋敷〜師岡町公園

   〜大倉山駅

大倉山記念会館 外観
大倉山記念館内部
大倉山記念館周辺ヤドリギ
大大乗寺

今回は大倉山周辺の自然を楽しみながら、鶴見区の獅子ヶ谷にある横溝屋敷まで足を延ばしました。岡や神社の緑は初夏の味わいを堪能させてくれました。

 横浜市大倉山記念館

 大倉駅の横の急坂を登り切ると緑濃い樹間の向こうに真っ白な建物、このギリシャの神殿のような建物は、横浜市指定有形文化財に指定されています。現在の建物は、1932年(昭和7年)4月9日、大倉精神文化研究所の本館として竣工されました。計者・長野宇平治はこの建物を「プレヘレニック様式」と呼んでいます。。

大乗寺

 転法輪山箕谷峰院大乗寺(てんぽうりんざんそやほういんだいじょうじ)といい、 天正4年(1576)に後の三世(三代目住職)となる生外東鐵大和尚が当時の盟主・妻木傳蔵の母 「宝珠院殿華窓智栄大姉」を開基として創立された曹洞宗のお寺です。

熊野神社

この神社の中に禊祓(ミソギハライ)の文字が入った、手水舎があります。中央には、神社の御社紋である「三つ足烏」八咫烏(熊野大神のお使いです)が見られます。この烏は、初代・神武天皇(磐余彦命、イワレヒコノミコト)が、熊野の山中で道に迷われた時、お導きするために、神様がつかわされた、とされています。烏は夜明けを呼ぶ鳥、太陽を招く鳥といわれます。

杉山神社

 日本中でもここにしかない珍しい神社があります。「杉山神社」です。鶴見川流域には49社もあり、よく見かける神社ですが、他の地域にはありません。

杉山神社の名前が初めて記録されたのは、六国史の1つ『続日本後紀』(869年成立)です。「承和五年(838)二月庚戌(22日)、武蔵国都筑郡枌(杉)山神社、官幣に預かる、霊験を以てなり。」(原漢文)とあります。

意味は、「都筑郡の杉山神社が朝廷(神祇官(じんぎかん))から幣帛(へいはく)(お供え物)を捧げられた、それは杉山神社が霊験のいちじるしい神社だからである」ということです。

横溝家

 横溝家は、16世紀末の慶長年間から、獅子ヶ谷村の名主をつとめてきた家です。横溝家の初代の名前は、五郎兵衛といい、代々この名前を継ぐ慣習がありました。 江戸時代には、村人と力をあわせて鶴見川の周辺を開墾して水田にしたり、谷間に 溜池をつくったりしました。明治になると、横浜港から輸出される生糸やお茶の 生産をはじめました。主屋の二階では、さかんに養蚕がおこなわれました。獅子ヶ谷の地名は、熊野権現の獅子舞を受け持ったことに由来すると伝えられて います。

大乗寺
熊野神社
熊野神社
熊野神社「の」の池
杉山神社鳥居より
杉山神社本殿
横溝家の母屋
横溝家の納屋と母屋

  深緑の鎌倉

 名刹と新段葛散策

日 時:平成28年(2016)5月18日

 ガイド:伊藤・前島 資料作成:前島

 コース:JR鎌倉駅西口〜御成門・

   旧講堂〜門註所跡・裁許橋〜

   佐助稲荷神社〜錢洗弁財天〜

   寿福寺〜英勝寺〜伝阿仏尼墓〜

   岩船地蔵〜薬王寺〜相馬師常墓〜

   浄光明寺〜新段葛(解散)

御成小学校旧体育館 御成小学校前で朝の挨拶
錢洗弁財天 佐助稲荷神社

 

今回は御成小学校の貴重な体育館を皮切りに古い鎌倉の史跡や文化財を訪ねました。お天気にも恵まれ、楽しい史跡巡りとなりました。特に英勝寺の山門、裏庭の見事な竹林が強く印象に残りました。

 御成小学校旧講堂
 昭和九年(1934)に御用邸跡地に作られた御成小学校と旧講堂は、「御成」という地名の発祥の場所です。旧講堂は、当時鎌倉宮大工他の匠が技術を結集して作った和洋折衷の近代建築でした。ヘレン・ケラーもここで講演をしました。

 佐助稲荷神社 源頼朝は、父義朝を平清盛に殺され、伊豆に流されて、少年期と青年期を過ごしました。蛭が小島にいる時に、宇迦御魂命が翁の姿で夢枕に立ち、挙兵をするのは、今だ!というお告げがあり、冶永四年(1180)八月十七日に挙兵して、平家討伐を果たしました。

 銭洗弁財天宇賀福神社 祭神:宇賀福神 銭洗弁財天宇賀福神社は、お金を洗うと何倍にも増えて戻ってくるといわれる、霊水「銭洗水」が湧く神社です。銭洗水は境内の洞窟(奥宮)で湧き、ご利益にあずかろうと多くの参拝客が訪れます。

 八坂神社 建久3年(1192)千葉常胤の子相馬次郎師常己が邸内に守護神として勧請して崇敬したのに始まります。その後現在の地に奉遷されました。世に相馬天王と称されるのはこの故です。

 寿福寺 北条政子の墓 寿福寺には、多くの名僧が入寺しました。鎌倉の禅宗文化で、重要な存在の寺院であると言われます。境内裏手の墓地には、明治時代の外務陸奥宗光、高浜虚子、大佛次郎などの墓があり、さらにその奥のやぐら(鎌倉地方特有の横穴式墓所)には、北条政子と源実朝の墓と伝わる五輪塔があります。

 伝阿仏尼の墓 英勝寺墓地の崖下に「十六夜日記」の著者阿仏尼の墓と伝わる供養塔(層塔)があります。台座には「阿佛」と刻まれているが、阿仏尼の墓として特定することは難しい。ただ、浄光明寺の境内に阿仏尼の供養塔があったとう伝承があり、昔から、扇ヶ谷に阿仏尼の墓と呼ばれるものがあったものと考えられています。

英勝寺 鎌倉で唯一の尼寺です。この地は太田道灌の居館の地であったといわれております。家康の側室お勝の方は太田道灌の曽孫康資(やすすけ)の娘でした。家康の死後出家して英勝院と号しました。将軍家光からこの地を寺地として賜り、寛永11年(1634)、菩提寺としたのがはじまりです。創建当時からの建物が多く残っており、山門、仏殿、鐘楼,祠堂、祠堂門(唐門)はすべて国の重要文化財に指定されています。

政子の墓 寿福寺
八坂神社
英勝寺山門
伝阿仏尼の墓
岩船地蔵 英勝寺の竹林
新装成った八幡宮の段葛
浄光明寺
岩船地蔵堂 扇ヶ谷のJR横須賀線ガード近く亀ヶ谷坂の入口に、源頼朝の娘、大姫の守本尊を祀る岩船地蔵堂があります。 守本尊とされる石造地蔵尊(岩船地蔵)は、舟形光背をもつもので、岩船地蔵の名の由来となっています。1691年(元禄3年)に堂が建て替えられたときに木造地蔵尊が安置されました。  その胎内の銘札には「源頼朝の息女の守本尊」と書かれているといいます。その当時、石造地蔵尊は縁の下に置かれていました。最近になって新しい堂に建て替えられ、木造地蔵尊を前に、石造地蔵尊をその奥に安置しています。
浄光明寺 浄光明寺は、国の史跡に指定されており、貴重な名仏や遺跡が残されています。山門を入ると客殿、庫裏、不動堂などがあり、その裏手の一段高くなった敷地に阿弥陀堂と収蔵庫があります。鎌倉彫刻の傑作として名高い、国の重要文化財阿弥陀三尊像等は収蔵庫に安置されています。さらに裏手、狭い階段を上った先の山上には岩壁をうがった「やぐら」があり、内部に石造地蔵菩薩坐像(通称網引地蔵)が安置されています。そこからさらに登ったところに、国の史跡に指定されている、冷泉為相(れいぜいためすけ、鎌倉時代の歌人)の墓があります
段葛 国指定史跡 段葛(だんかずら)とは、鶴岡八幡宮の参道、若宮大路のなかで、二の鳥居から鶴岡八幡宮までの約500mの車道より一段高い歩道(参道)をいいます。参道「段葛(だんかずら)」は、国指定史跡「鶴岡八幡宮境内」の一部です。

 段葛は2014年より、竹中工務店により整備工事がはじまり、2016年3月30日に工事竣工の奉祝行事が行われました。元の桜の木は、約30本を移植して、新たに樹齢五年ほどの、ソメイヨシノ百七十七本が植えられました。 

江ノ島と

その周辺を歩く 

日 時:平成28年(2016)4月20日

 ガイド:山中・畑島 資料作成:山中

 コース:江ノ電江の島駅〜本蓮寺

  〜常立寺〜龍口寺〜満福寺〜

  小動神社〜 江の島ヨットハーバー

  (昼食)〜江ノ島神社(三宮弁財天)

  群猿奉賽像〜杉山検校の墓〜江の

  島頂上解散〜小田急片瀬江ノ島駅

朝のご挨拶
本蓮寺境内
龍口寺
常立寺碑 
龍口

龍口の地名の由来は、この地に残る五頭竜伝承にちなんで名づけられたという。かつて悪事の限りを尽くした五頭竜が江の島の女神(弁財天)に惚れ、改心し山に姿を変えて津村・腰越の守護神となったという。この伝承によると、このあたりが龍の頭部にあたるため「龍口」と名付けられたのこと。

 龍口一帯は鎌倉幕府の刑場があった所で、特に有名なのが、日蓮が処刑寸前に助命される事件(龍ノ口法難)です。大庭景親の梟首、源義経の首実検、また、元寇のおり元の使者や中先代の乱を起こした北条時行もこの地で処刑されています。

江戸時代に入ると江の島詣でや鎌倉への玄関口として多くの巡礼者や観光客でにぎわうようになり、龍口寺の周辺は門前町としてにぎやかでになった。

龍口山本蓮寺:日蓮宗

推古天皇3年(595)義玄が創建し、その後真言密教の寺院となったと伝えられています。寿永元年(1182)頼朝が平家追討祈願のため江の島に渡った際、本蓮寺大門前の松に馬を繋いで当寺で休息したと伝えられています。

 龍口山常立寺(じょうりゅうじ):日蓮宗

龍口で処刑された者たちを弔うため、「誰姿森(たがすもり)」と呼ばれる西側の隣接地に埋葬し「面影塚(おもかげづか)」を作り供養塔が建てられた。もとのこの場所に真言宗の回向院利生寺という寺が創建され、後に利生寺は享禄5年(1532)に妙光山法華寺(現円融時)7世日豪により日蓮宗に改宗し、常立寺と改称した。現在は身延山久遠寺の末寺です。

龍口寺 (寂光山 日蓮宗)

創建伝説によると、文永8年(1271)9月12日夜、他宗を批判して幕府ににらまれ、死刑に処せられることになったが、奇跡が起きて処刑が取りやめになり、あらためて佐渡に流されることになった。これを、宗門では「龍ノ口の法難」と呼ぶ。日蓮上人没後の延元2年(1337)、門下の日法上人がこの地を「龍ノ口法難霊蹟」として敷皮堂を建立、自作の祖師像と首敷皮を置いたのが龍口寺の始まりとのこと。

満福寺(医王院 龍護山)

 源義経腰越状旧跡地として知られ、山門横に義経公慰霊碑、本堂裏手に義経が手を洗ったとされる井戸、右横には弁慶の腰掛石、弁慶が腰越状の下書きをするため水を汲んだとされる硯の池がある。義経は元暦2年(1185)5月平家を壇ノ浦に滅ぼし、平宗盛父子を捕えて鎌倉に凱旋しようとした。しかし、頼朝は義経が独断で行動し、軍監として送った梶原景時としばしば対立、また朝廷から官位を勝手に受領したことに気色を損じ、鎌倉に入ることを許さなかった。 

江ノ島

 江の島は信仰の島、歴史と伝説の島であり、豊かな緑と、島から望む美しい景観の場として多くの人々が訪れる。周囲4km、標高61.5m、面積0.3km2の島で、境川の土砂によって、片瀬海岸とつながった、陸繋島。

 『江之島縁起』によると、昔鎌倉の深沢に周囲40里もある湖があり、そこに住んでいた五頭竜が人々を苦しめていた。欽明天皇のころ(6世紀前半)、にわかに天地が揺れ、天の暗雲の中から天女が、海中から島が出現し、天女は、その美しさにひかれて求婚する竜の望みをかなえおとなしくさせた。これが弁財天として江の島明神となったという。また、江の島を最初に発見したのは役行者小角といわれ、役行者は、吉野に金峰山を開き、日本の山岳修験道の祖といわれている。

岩本楼入り串 満福寺
瑞心門
尾上菊五郎、菊之助植樹の枝垂れ桜
中津宮 公園の芝桜
奥津宮
杉山検校の墓
群燕奉賽像庚申塔

神奈川宿

歴史の道を歩く

 日 時:平成28年(2016)3月16日

 ガイド:橋本・石井 資料作成:橋本

 コース:

  神奈川新町駅(京浜急行)〜

  長延寺跡(オランダ領事館跡)

  〜良泉寺〜笠のぎ稲荷神社〜

  能満寺・神明宮〜東光寺〜金蔵

  院〜熊野神社〜高札場〜成仏寺

  〜慶運寺〜浄瀧寺〜大井戸〜

  宗興寺〜権現山〜洲崎大神〜

  普門寺〜甚行寺〜大綱金刀比羅

  神社〜本覚寺〜台の坂茶屋〜

  神奈川台の関門跡

笠穆稲荷神社
東光寺
熊野神社
金蔵院
成仏時(宣教師宿舎) 高札場
     今回のルートマップ

 今回は神奈川宿を中心に開港のころ外人ために用意された領事館や宣教師の宿舎などはそのほとんどが当時としては大きな建物だったお寺があてられました。

 笠のぎ稲荷神社:この神社の前を通行する笠をかぶった人の笠が自然に脱げ落ちたので「笠脱稲荷」と呼ばれるようになり、その後、笠脱の脱を「禾」へんに「皇」に改め「のぎ」と読み、笠のぎ稲荷としました。

 金蔵院:神鏡山東曼荼羅寺といい、真言宗智山派のお寺です。神奈川宿内で最古(寛治元(1087)年、平安時代末期)で堀河天皇の命を受け勝覚法印が開創した勅願寺。 源頼朝が戦勝を祈願したと言われています。

 熊野神社:熊野神社は、平安時代に紀伊国の熊野権現を分祀したといわれ、昔は権現山(現 幸ヶ谷公園)にありました。江戸時代中期になって金蔵院の境内に移転しました。

 高札場:高札場は、幕府の法度や掟を記した木札を掲示した施設で滝の橋のたもとにありました。宿場の施設として重要で領民の統治に欠かせない施設でしたが、明治6年に廃止されました。写真は、神奈川町本陣石井家文書をもとに神奈川地区センター前に復元したもので、横5m、高さ3.5m、奥行1.5mと大きなものです。

 成仏寺:正覚山法雨院といい浄土宗のお寺です。嘉永7(1854)年、横浜で行われた日米和親条約交渉の全権委員・林大学頭の宿舎になり、日本開国の最前線基地でした。 開港3か月後にはアメリカ人宣教医・ヘボンが来日し、その宿舎となりました。

 慶運寺:浄土宗知恩院派のお寺です。開港時にはフランス領事館にあてられました。 東神奈川の山側の浦島丘にあった観福寿寺に浦島伝説が伝わっていましたが、慶応4(1868)年の大火で焼失したため、浦島観世音や石塔がこの寺に受け継がれ、慶運寺は浦島寺とよばれるようになりました。 秘仏浦島観世音は12年に一度、子年に御開帳されます。

 浄瀧寺:妙湖山浄瀧寺といい日蓮宗池上本門寺派のお寺です。開港当時にイギリス領事館として使用されました。鎌倉時代、日蓮上人が鎌倉へ向かう途中にこの寺へ立ち寄った際、開基妙湖比丘尼は日蓮に心酔し弟子となりました。

 大井戸:江戸時代には東海道中の名井戸に数えられ当時は宗興寺を「大井戸」と呼ぶほどであったと言われています。江戸中期には神奈川御殿に宿泊する徳川将軍のお茶の水に使われたと伝えられています。

 宗興寺:開塔山宗興寺といい曹洞宗のお寺です。ヘボン式ローマ字で知られるヘボン博士が成佛寺を宿舎としながら宗興寺を施療所として6か月間で約3,500人の患者を無償で診療しました。

 権現山:かつてこのあたりは権現山と呼ばれ、本覚山のある高島台と尾根伝いに繋がる急峻な山でした。幕末から、明治にかけて、お台場や鉄道用地の埋め立て、開削などのために山は削られ、現在のように低くなった。(現地案内板より

 洲崎大神:洲崎大社は源頼朝の創建といわれています。頼朝は石橋山の合戦に敗れ、安房国洲の崎安房神社で再起をはかり、この地に安房神社の分霊を祀ったのがこの社の始まりといわれています。

 普門寺:普門寺は、洲崎山と号し、真言宗智山派に属します。山号の洲崎は洲崎大神の別当寺であったことによります。寺号の普門は洲崎大神の本地仏である観世音菩薩を安置したことにより、観世音菩薩が多くの人々に救いの門を開いているとの意味で普門とされたと伝えられています。開港当時、イギリス海軍士官の宿舎として使用されていました。

 甚行寺:明暦2(1656)年第一世意圓上人が本山専修寺第14世堯秀上人を招いてこの寺を草創したと伝えられ、真色山と号し浄土真宗高田派に属します。開港当時、本堂は土蔵造りでしたが、改造を加えて一時フランス公使館として使用されました。

 本覚寺:青木山延命院本覚寺といい曹洞宗のお寺です。開港当時アメリカ領事館に充てられました。神奈川領事であったドールは、庭の松の枝を払い落とし木の上に星条旗を掲げたといわれます。そして山門を白ペンキで塗りました。今も獅子頭に痕跡が残っています。ハリスとの日米通商友好条約締結時に横浜開港を提唱した岩瀬忠震の顕彰碑が山門前に建っています。生麦事件の際、負傷したマーシャルとクラークは本覚寺へ逃げ込み、ヘボン博士が治療して一命をとりとめました。

 神奈川台の関門跡:開港後、外国人殺傷事件が多発したうえ、犯人を捕らえることができずに、幕府は諸外国から激しく非難されました。幕府は子安、台町、石崎、暗闇坂、吉田橋、宮の河岸渡船場等に関門と番所を設け外国人の保護と武士の取締りに当りました。明治4(1871)年に廃止されました。

 今回は開港時どこがどんな施設として使われたのかということを中心にして神奈川宿を歩いてきました。幕末には領事館などとして使える大きな建物がなかったので、どうしてもお寺がつかわれたようです。その後居留地が発展するに従い、そういった施設も徐々に独立した建物に移っていきました。

慶雲寺 柘植の亀 浦島伝説
慶雲寺(フランス領事館跡) 
大井戸
浄龍寺 (イギリス領事館跡)
権現山
宗興寺
普門寺(イギリス海軍士官宿舎跡)
洲崎神社
本覚寺(アメリカ領事館跡)
甚行寺(フランス公使館跡)
神奈川台町関門跡

   初春の古道

 戸塚の鎌倉道を歩く

 日 時:平成28年(2016)2月17日

 ガイド:三春・山中 資料作成:三春

 コース:

下飯田駅-天王森泉公園-俣野三叉路

道標-神明社・俣野神社-観音堂-福泉

寺-ウイトリッヒの森-龍長院-八坂神

社-旧代官屋敷-五又路の石仏群-俣野

別邸庭園-遊行寺(解散)

天王森泉公園 ひな人形
天王森泉公園 入口
天王森泉公園 吊るし雛 天王森泉公園 広場
    今回のルートマップ 
三叉路の石碑
神明社
 今回は戸塚の俣野町あたりを通る鎌倉道を歩きました。この道は鎌倉道の中でも最も西寄りの道で上道といわれている道です。鎌倉道にはこのほかに中道、下道という呼ばれる道もあったといわれています。鎌倉道は古い道ですのであまり完全なみちは残っていませんが、この俣野町あたりは、古い鎌倉道の面影が比較的残っているといわれています。

 天王森泉公園:俣野公園に接した泉区和泉町に天王森泉公園があります。面積約35,000u、 市内でも少なくなった里の風景、 豊富な湧き水、蛍の生息地、ワサビ田、清水製糸場跡がセットで保存されるユニークな公園で、横浜市が平成4年度より整備を始め、平成9年度にオープンしました。今回はたまたま泉館にひな祭りの吊るし雛が飾られていて見ることができました。

 俣野の三又路の道標: 三叉路に庚申塔5 基(安永5年(1776年) 、弘化3年(1846年)、昭和43年(1968)、年代不詳2基) があります。これらは鎌倉道の名残ともいえます。

 明神社:鎌倉道をはさんで俣野神社の反対側 (保野町.l270)に、室暦10年創建と伝えられている神明社があります。 現在の社殿は、昭和52年に改築されたものです。 

 俣野神社:古代の欽明天皇の御代に創建されたと伝えられ、 欽明天王社と呼ばれていましたが、 明治6年に村社となったとき俣野神社と改めました

 観音堂:源頼朝が石橋山に兵を挙げたとき、平家方として大庭景親に従って出陣した俣野五郎景久の守護仏といわれている十一面観世音菩薩を祭った観音堂があります。

 福泉禅寺(曹洞宗) :福泉寺(曹洞宗) 領主木原氏が端桑全的を開山として、廃寺になっていた福泉寺を再興したといわれます。相模国には東谷山・西谷山・南谷山の3か寺があり、当時はこの村が北方にあったので北谷山福泉寺と称したと伝えられています。。山門の阿吽の竜の彫刻はすばらしく、寺の墓地には7代住職で寺子屋の師匠章端 の筆子塚(天明4年(1784))があります。

 ウイトリッヒの森:スイス人・ウイトリッヒ氏は、故郷の風景に似ていると、この森を愛し住んでいましたが、昭和58 年に亡くなると、妻の津田ひ亭さんが、横浜市に寄贈しました。市は、貴重な植物や野鳥・昆虫が棲んでいるこの森を寄贈者にちなんでウイトリッヒの森として開放しています。

 龍長院 ウイトリッヒの森からコースを進むと庚申塔(文政8年(1825))、不動明王(明和8年(1771))が立ち並ぶ龍長院(曹洞宗)の前にでます。延徳年間(1489?92) に堅心が開山した瀧長庵がありましたが、慶安2年(1649)年、東俣野村領主永井丹波守白元(あきもと)が鎮護国家の祈願所として辰岩を迎えて堂宇を改築し、龍長院と改めたといいます。

 鎌倉道道標と八坂神社 享保4年(1719)に創建され、 明治6年(1873)に村社となりました。 第一鳥居横には庚申塔(延宝3年、(1675)寛政7年(1795))、地神塔(嘉永4年(1851))、道路改修記念碑(昭和35年)や案内板があります。

 旧代官屋敷 徳川家康に近侍した永井弥右衛門白元(あきもと)は慶長元年(1596)、初めて鎌倉郡下俣野(東俣野)村230石、高座郡鵜野森村30石、同寺尾村70石余の都合330石を知行地として拝領し、東俣野に陣屋を構えて30年間在住しました。その後江戸府内(四谷大木戸)に移り、知行も増加して監物*を拝命して総石高が3530石余の大身旗本に昇進しています。永井氏六代監物白衆(あきもち)は相模・上総・下総・下野に散在する知行地16か所を統括する代官役に東俣野村の名主川戸兵左衛門を任命し、以降四代がその役職を継承しました。川戸氏がこの屋敷を上棟した時に遊行寺に酒と餅を献上したことが寺の日誌に残っているそうです。

 石仏群 八坂神社前の道を行くと共栄会館前にでる。その横に庚申塔(延宝5年、(1677)元禄5年(1692)、文政10年(1827)慶応2年(1866))、地蔵像(元禄2年)(1689),地神塔(弘化5年)(1848)、木食観正碑(文政3年)(1820)があります。

 遊行寺 一遍上人から4代目の他阿呑海は、諸国遊行ののち、 遊行上人の座を弟子の五代目安国に譲りました。正中2年、俣野の地頭俣野五郎景平は弟呑海のために廃寺となっていた極楽寺を再興して住まわせました。 寺名を藤沢山無量光院清浄光寺といいました。 これが藤沢の遊行寺の起こりです。境内には、 上杉禅秀の乱の犠牲者の供養の記念碑「敵味方供養塔(応永25年)」 や小栗判官満重と照手姫の伝説で知られる.照手姫が住み、小栗の菩提を弔った長生院(小栗堂)があります。

 このコースは比較的長いコースでしたが、途中歩けなくなる人も出ないで全員完歩することができました。古道、鎌倉道の雰囲気を存分に感じられるコースでした。

俣野神社
観音堂
福泉禅寺
ウイトリッヒの森
龍長院
八坂神社
旧代官屋敷 五叉路の石碑群
遊行寺 本堂
俣野別邸公園
俣野別邸

 1939(昭和14)年に住友財閥の第16代住友吉左衛門友成の別邸として戸塚区東俣野町に建設されました。国内の建築作品に与えられる大きな賞の一つ、BCS(Building Contractors Society)賞を受賞した佐藤秀三の設計による「和洋折衷建築」が俣野別邸の大きな特長です。当時の郊外邸宅の有り様を物語る歴史的価値の高さから、2004(平成16)年に国の重要文化財に指定されました。横浜市が一般公開を目指して一部の老朽化した箇所の復元工事を進めていたところ、2009(平成21)年3月15日午前5時ごろに出火。母屋約659uを全焼しました。そのご再建が進み、この3月には建物は完成するとのことです。内部の準備などもあり、一般公開にはまだ時間がかかりそうです。 

小栗判官満重、照手姫の墓

  
   新春恒例

 鎌倉七福神めぐり

 日 時:平成28年(2016)1月6日

 ガイド:前島・石井  資料作成:長木

 コース:JR北鎌倉駅集合→浄智寺→

    鶴岡八幡宮→宝戒寺妙隆寺

    大町会館→本覚寺→御霊

    神社長谷寺(解散)

   今回のルートマップ

浄智寺 布袋尊 鶴岡八幡宮  弁財天
宝戒寺  毘沙門天
 妙隆寺 寿老人

 お正月はもう恒例になった鎌倉七福神まわりです。そして今年も又北から南に回りました。出発は浄智寺で長谷寺でおわります。

 鎌倉の6日といえばまだまだ初詣の人が大勢見えています。その中を一斑50人ほどの団体で歩くのはなかなか大変なことです。はぐれてしまう人が出ない様、ガイドはもちろん、旗持ちのサポートでもかなり気を使います。

 今年も無事、七福神回りができて参加者の皆さんはそれぞれの願い事をこの七福神めぐりでなされたことと思います。

 最初は例によって北鎌倉の浄智寺で布袋尊です。

1.金宝山浄智寺・布袋尊(不老長寿の神)臨済宗円覚寺派 鎌倉五山第四位のお寺です。鎌倉幕府五代執権北条時頼の三男・宗政が29歳の若さで1281年(弘安4年)に没し、八代執権・北条時宗が弟の菩提を弔うために、その夫人と子・師時を開基として建てた寺と伝わります。

2.鶴岡八幡宮旗上弁財天社・弁財天(芸能・開運・財運の神)鶴岡八幡宮は、1063年(康平6年)8月源頼義が山城国の石清水八幡宮を勧請(かんじょう)して、鎌倉の由比郷鶴岡(元八幡の場所)にまつりました。後に1081年(永保元年)にその子、八幡太郎義家が社殿を修理しました。

3.金龍山宝戒寺・毘沙門天(病魔退散の神) 天台宗 この地は北条義時が小町邸を造って以来、代々の執権が住んでいた屋敷跡だといわれます。この屋敷は1333年(元弘3年)新田義貞が鎌倉に攻め入ったとき全部焼け、同時に百年以上も続いた北条氏は滅びてしまいました。その後、1335年(建武2年)足利尊氏が北条一族の霊をなぐさめるため、後醍醐天皇の命で寺を建て宝戒寺と名付けました。

4.叡昌山妙隆寺・寿老人(長寿の神) 日蓮宗 妙隆寺は源頼朝の御家人であった桓武平氏・千葉常胤(つねたね)の子孫千葉大隅守・平胤貞(たねさだ)の旧地です。日英上人が建てたといわれるこの寺は,二代目の日親上人のころにたいへん栄えたそうです。

5.東身延本覚時・夷神(商売繁盛の神  日蓮宗 この寺は1436年(永享えいきょう8年 )、公方・足利持氏の勧めにより、日出上人によって開かれました。当初、持氏は、上人や信者を迫害、弾圧していたのですが、その意志と結束の強さに感心し、古くよりここにあった夷堂の地を与えたのです。

6.御霊神社・福禄寿(幸福・財福・長寿の神) 御霊神社を土地の人々は権五郎神社と呼んでいます。祭神は鎌倉権五郎景正という武士です。この神社はいつごろ建てられたのかはっきりわかっていませんが、平安時代末期には存立していたものと思われます。 御霊神社というのは、もともと土地の神としての、祖先をまつる神社という意味です。

7.海光山慈照院長谷寺・大黒天(開運・財福の神)浄土宗系単立  721年(養老5年)に徳道上人が楠から彫り上げたといわれる日本最大級(9,18m)の木彫十一面観音像を本尊としています。 縁起によりますと、徳道上人はこの時、一本の楠から二体の十一面観音像を彫り上げており、木の本で造った方は大和国長谷寺へおまつりし、木の末で造った観音は、縁ある地に行って、民衆を救ってくれるようにと祈って海に流しました。そして、この海に流された方の十一面観音像が、736年(天平8年)、相模国三浦の長井浦に流れ着きました。これを鎌倉に移して、先の徳道上人を迎えて寺を開き、この観音を本尊としておまつりしたのが長谷寺であるといわれています。


宝戒寺  毘沙門天  妙隆寺 寿老人
本覚寺  夷神
五霊神社  福禄寿
 長谷寺  大黒天
 長谷寺  

  師走の鎌倉

 ロマンの洋館巡り

 日 時:平成27年(2015)12月16日

 ガイド:伊藤・後藤

 資料作成:後藤 

 コース:鎌倉駅西口時計台→御成小学校→

旧安保小児科医院→旧横浜興銀→寸松堂→

かいひん荘→加賀谷邸→長谷子供会館→鎌倉

文学館→ハリス記念鎌倉幼稚園・日本基督教

団鎌倉教会→大町会館(昼食)→伊藤邸→土谷

邸→比企谷幼稚園→聖ミカエル教会堂→湯浅

物産→三河屋本店→川合邸→石島邸→古我邸

→鎌倉駅西口

今回のルートマップ

御成小学校
旧安保小児科医院
かいひん荘 寸松堂
加賀谷邸

 今回は鎌倉の洋館巡りという逗子ボランタリーガイド倶楽部にとっても珍しい試みだったせいか、予想を超える盛況で会としてはうれしい誤算でした。鎌倉は何十回と歩いていますが、今回のように明治、大正、昭和初期に建てられた洋館を選んで見て歩くと、今まで気が付かなかったところに意外な洋館があり鎌倉の奥の深さに驚かされました。震災前にたてられた建物がいまだに使用されているというところもあり、当時の建築技術の高さを感じさせてくれます。

鎌倉の発展

 江戸期の鎌倉は三浦方面へ向う街道筋に位置していても、隣の藤沢のような宿場としての賑わいも、中心地としての機能にも乏しい寒村でした。土地の大部分は寺社が所有しており、漁業も盛んというほどではなかったのです。

 明治に入って、1889年(明治22年)横須賀線が大船横須賀間の開通を果たすと、東京からの交通の便も良くなり、別荘族の鎌倉への進出がブームを迎えます。明治天皇の御用邸が鎌倉駅の西口、現在の市役所、御成小学校などのあたりに立てられると、別荘ブームに拍車がかかり、鎌倉のおよそ三分の一の住民、家屋は別荘族と別荘としてのものでありました。別荘地としての発展が明治から大正にかけて鎌倉を支えたといっても過言ではないのです。

日本基督教団鎌倉教会

 この教会堂は大正15年に建てられました。町の中のひときわ高い教会堂はこのあたり由比ガ浜のランドマークとして親しまれてきたようです。今回突然の訪問にもかかわらず、牧師さんの奥様の許可がえられ、中を拝見し説明をしていただくことができました。内部から見るステンドグラスは上品で見事なものでした。

古我邸

 今回の目玉ともいうべき建物です。3000坪の敷地を使い建てられた大別荘です。三菱財閥の総帥岩崎小弥太や重役の荘清次郎が購入し建築した建物で、歴代の浜口幸雄や近衛文麿といった総理大臣も別荘として使われたそうです。その後古我氏が購入し、現在は洋食の高級レストランとなっています。鎌倉文学館の建物と並んで、鎌倉の近代を代表する文化財というべき建物です。  

長谷子供会館

鎌倉文学館

日本基督教団鎌倉教会

日本基督教団鎌倉教会内ステンドグラス

比企谷幼稚園
聖ミカエル教会堂
古我邸

 名称三渓園の

秋色を楽しむ

 日 時:平成27年(2015)11月18日

 ガイド:橋本・石井

 資料作成:橋本 

 コース:JR山手駅〜本牧山頂公園(下村

   観山顕彰碑)〜本牧神社〜八聖殿郷土

   資料館〜亀の子神社〜三渓園

     今回のルートマップ

下村観山顕彰碑
本牧山頂公園へ

 今回は、天気予報によればお昼過ぎから雨との予報で、主催する方としても実施を迷うところでした。朝の最新予報によると3時過ぎから雨とのことでしたので、何とかそれまでに回りきろうと決行を決めました。朝のうちは薄日も射してまあまあのウォーク日和でした。最初は本牧山頂公園を目指して歩き、観山顕彰碑、本牧神社、熊野速玉社、にお参りして山から下り、八聖伝殿、亀の子神、によって最終目的地の三渓園に入りました。三渓園をほぼ回り終わったところで雨が降り出し、ほぼ予定通りということで無事公募を終えることができました。。

 本牧山頂公園

 戦後、本牧一帯は米軍に接収され、駐留軍の住宅地でした。この丘は、将校や士官のための高級住宅地でした。         接収されていた本牧地区の返還が、昭和57年(1982年)に行われ、丘の部分が「本牧山頂公園」として全域開園したのは平成14年ということです。

 下村観山顕彰碑

『日本画の巨匠 下村観山は岡倉天心、横山大観とともに日本美術院創立者であり、大正2年(1913年)原 三渓の招きで、ここ和田山にアトリエを構えました。

 当時は、白帆の舟が行き交う本牧の海を臨む景勝の丘で、国の重要文化財に指定された代表作「弱法師(よろぼし)」などを描いています。

 本牧神社(旧称・本牧十二天社)

 本牧十二天社は旧来、本牧岬の先端(現本牧十二天一番地)に張り出した出島の中に鎮座し、巨古木蒼然たる杜に囲まれ、鳥居の脚元には波濤打ち寄せる風光明媚な鎮守様でした。その様子は江戸名所圖絵にも「本牧塙 十二天社」として描かれ、江戸湾を往来する廻船からは航海安全の神、地元民からは生業の守護神と崇められ、八百年以上の永きに亘り本牧の地に鎮座して人々のあつい信仰を受け続けてきました。

 縁の神 熊野速玉社

 室町時代より本牧十二天社(本牧神社の旧称)の境内社として祀られていた六社のうちの一社、速玉之男神を祀る。日本書紀によれば、速玉之男神は伊邪那岐命が黄泉(よみ)の国の醜さを嫌って、伊邪那美命に対し別離宣言をされたとき、振り払った衣の裾からお生まれになった神。「悪しき縁を断ち、穢(けが)れを祓う」といわれ、転じて「良縁にめぐり逢い、相整う」といわれています。

亀の子神社

大昔のこと、漁師の網にかかった大亀がそのまま石に化したのだと伝えられています。いつの頃からか、この亀の子石はのどを守る神、とくに百日咳に効験ありとして信仰され百日咳などを患うと、この神様からたわしを借りてのどをこすります。

三渓園について

三溪園は生糸貿易により財を成した実業家 原 三溪によって、1906年(明治39)5月1日に公開されました。175,000m2に及ぶ園内には京都や鎌倉などから移築された歴史的に価値の高い建造物が巧みに配置されています。(現在、重要文化財10棟・横浜市指定有形文化財3棟)

聴秋閣

 穂川三代将軍家光が元和9(1623)年に上洛した時に佐久間将監(しょうげん)に命じて二条城内に造営されたものと伝えられる。その後、乳母春日局が将軍から賜り、局は夫の稲葉侯の江戸邸内に移築しました。  


菊まつり 

 たまたまこの時期は菊まつりの最中でした。それぞれの出品者が丹精込めて咲かせた見事な菊が展示され知ました。花弁の細い薄紫色の菊は、まるでクジャクが羽を広げたような感じで、思わずシャッターを切りました。

本牧神社 大しめ縄
熊野速玉社 縁の神
亀の子神社
八聖殿 外観
三渓園 聴秋閣
三渓園 紅葉のはしり 
三渓園の菊まつりより
三渓園の菊まつりより

初秋の神武寺・

鷹取山周辺を散策

 日 時:平成27年(2015)10月21日

 ガイド:後藤・畑島・前島(別ルート)

 資料作成:後藤 

 コース:京急神武寺駅〜池子参道〜

  神武寺(客殿・薬師堂・弥勒やぐら)

  〜十州望〜鷹取山〜沼間海宝院〜

  JR東逗子駅

今回のルートマップ

池子石の石切り場跡 神武寺・総門
神武寺・客殿
神武寺・みろくやぐら

 今月のルートは、神武寺駅から神武寺道を歩き裏参道を登り、まず最初に神武寺を訪ねました。客殿、みろくやぐら、楼門、薬師堂などを見て回り、さらに山道を登り尾根道をたどって鷹取山を訪ねました。

 鷹取山の展望台からは遠くは金沢八景の八景島や横浜のランドマークタワーも望めました。山すそを見ると磨崖仏が森の中に顔を見せていました。

 磨崖仏を見た後、下山して沼間に下り、最後に海寶院をたずねました。この寺は安土桃山時代の終わり、家康の家臣長谷川長綱の創建です。徳川家と深いつながりがあるこの寺は、寺領十八石の御朱印を賜り、五石にとどまった神武寺を圧して栄えたといわれます。一つには豊臣家との付き合いが深かった神武寺を監視するためだったとも言われています。

 神武寺医王山来迎院 天台宗

 奈良時代の新亀元年(724)、奈良の大仏を造られた聖武(しょうむ)天皇(724〜749)の勅願(ちょくがん)により、夢の中に薬師如来が現われ、東方に寺を建てよとお告げがあり、行基がこの山中に草堂を結び、釈迦・薬師如来と十一面観音菩薩の三尊を祭られたのが草創(そうそう)であると伝えられています。

 総門と切通し

 総門は表参道踏み切を渡ったところに、戦前まではあったのですが、戦時中に表参道の登り口に移され、さらに昭和50年(1975)に山上の境内に引き揚げられて、銅葺に改造されています。

 客殿(来迎院)

 建築物の屋根に宝珠を載せた来迎院があります。堂内には本尊の阿弥陀如来三尊は永正11年(1514)の室町後期(戦国時代)の造立とされていますが、たびたび補造されて、現在のものは天保5年(1834)に鎌倉仏師後藤真慶の再興であります。      

 薬師堂 

 神武寺の本堂は新宮の台に建つ薬師堂です。文禄3年(1594)、室町末期の様式で建立され、堂内陣は立派な来迎柱、格天井をいだいて、来迎柱の上の出組斗供(でぐみときょう)や両脇の木鼻(きばな)の絵模様にも古様式が見られ、かえるまたの部分にも室町の流れがうかがわれます。

 鷹取山

 神武寺から鷹取山までの道は、斜度のある石畳に始まり鎖を掴みながら歩く鎖場、人ひとりがなんとか通る事ができる切通しと、短いながらもハイカーを十分に楽しませてくれる道のりとなっていますが、石畳や鎖場近辺は雨が降ると滑りやすくなるので注意が必要です。このいわ山に彫られた弥勒菩薩象は逗子市の川口満氏の依頼で彫刻家の藤島茂氏が昭和35年(1960)から約一年かけて製作したもので、像高約8メートル、像幅約4メートルもあります。

 長谷山 海寶院 曹洞宗

 入口石畳には四脚門が優美に構えています。室町末期の典型的な禅宗様式で扁額(門戸のかける横に長い額)「獅子林」は長養雪峰の書でます。本堂左手奥にあがると長綱の墓があります。「当院開基節捜玄忠居士・慶長九年甲辰四月十二日六十二歳於江戸卒」墓石裏には「家康公御代之奉行長谷川七左衛門少将藤原朝臣長綱」と刻んであります。

 別ルート

 今回神武寺から鷹取山まで歩くのが大変という参加者のために特別ルートをつくり、神武寺から直接沼間に下り、沼浜館跡(沼浜城)、五霊神社などを回り、最後に海寶院で合流するというコースをつくりました。足に自信のない方はこちらのコースを選ばれました。

神武寺・薬師堂
神武寺・客殿と庫裏
神武寺・なんじゃもんじゃの木
神武寺・楼門
鷹取山・磨崖仏
鷹取山展望台より磨崖仏望む
海寶院・山門
海寶院・山門にて最後の説明
海寶院・長谷川長綱墓
海寶院・本堂

小網代の森から

新井城址を訪ねる

日 時:平成27年(2015)9月16日

ガイド:山中・三春 資料作成:山中 

コース:三崎口駅〜松輪入口バス停   

 〜小網代の森〜小網代湾〜

   白鬚神社〜永昌寺 〜内の引橋

  〜新井城址〜三浦義意(荒次郎)

   の墓〜三浦義同(道寸)の墓〜

   油壷バス停

      今回のルートマップ 

義士塚 小網代の森入口
朝の挨拶と小網代の説明 小網代の森の木道を歩く
 今回のルートはアカテガニの生息地として、今人気の小網代の森から、三浦氏滅亡の地、新井城址を歩きました。自然豊かな小網代の森はもちろんのこと、新井城址から見る小網代湾、油壷湾の絶景は思わず息をのむほどです。遠いい昔、三浦義同がこの地にお墓をと望んだという話も、なるほどとうなずけます。

小網代の森

 神奈川県三浦半島の先端に近い相模湾側にあり、油壷に隣接しています。平成26 (2014)年7月20日より、トラスト緑地の一つとして開園。

 小さいながら、海、河口から湿原、さらには源流域の森林が自然状態のまま一体として豊かな生態系となっています。このような別世界ともいえる環境は関東、東海地方ではこの小網代に残るだけだと言われており、アカテガ二やゲンジボタルなど約2,000種の生き物たちが棲む自然豊かな森です。

 緑地内を流れる約1.2kmの「浦の川」は、源流から河口干潟まで人工物が遮ることなく、森の豊かな恵みを、干潟、そして小網代湾へと注ぎ込んでおり、干潮時には広い干潟が現れ、浜辺に沿って歩くことができます。

 森と干潟、そして美しい海の小網代は、昔から人々の生活の中で受け継がれて来た自然が、豊かに残されている場所です。現在の美しい姿は、ただそのまま、自然のままに残されてきたわけではなく、30年余りのかなり長い間、自然保護活動により整備されて来たものです。この小網代の森と寄り添いながら管理作業を地道に担ってきたのがNPO法人小網代野外活動調整会議で、その中心が岸由二氏です。慶応義塾大学で生態学を教える傍ら、市民活動として主体的に活動にかかわって来られました。鶴見川の河口育ちで、工場地帯からの大気汚染や水質汚染や水害と、環境の悪いところに育ったため、「公害や水害のない緑豊かな街をつくりたい」と小さかった頃から考えていたそうです。

義士塚:今は畑の真ん中に小山のようにぽっこりとなっています。北条早雲と三浦氏の戦いで新井城が落ちた後、このあたりで自刃した4人の若者がいたそうですが、村人が憐れんで葬ったのがこの義士塚とのことです。

白髭神社:波穏やかな小網代湾は嵐の時の船の避難場所でした。そんな船の航海の安全を願う神社として祀られました。境内のカンカン石が有名です。

永昌時:もとは康安寺といいましたが、荒廃していたのを三浦道寸が、永正元年(1504)に再建し、自らの法名の永昌を寺号にしたと伝えられています。本尊は釈迦如来です。

三浦義同の墓所:この場所は義同本人が望んだように小網代湾、油壷湾の両方が望める半島の先端部にあります。残念ながら今は周りが大きな木で覆われているので、両方の海を見渡すことはできません。木々の間から美しい海がちらちらと見えるだけです。

小網代 やなぎテラス付近
小網代の森傾斜地の木道階段
小網代の森 開けた湿地帯
白鬚神社
西湖山 永昌寺
新井城址の碑と三浦義意の墓所
新井城址より油壷湾を望む
三浦義同の墓所

浅野総一郎と

キリンビールを訪ねて

  日 時:平成27年(2015)7月15日

  ガイド:橋本・石井 資料作成:橋本

  コース:JR鶴見駅西口〜総持寺〜

     浅野総一郎銅像〜生麦事件の碑

     〜キリンビール工場見学

今月のルートマップ

総持寺 三松閣 総持寺 三門
総持寺 香積台
総持寺 太祖堂
総持寺 御霊殿
総持寺 浅野家の墓所

 今回のご案内はタイトルの通り浅野総一郎とキリンビールを訪ねてとなっておりますが、せっかく鶴見に来たからには、やはり総持寺を見ない手はないと思い、かなりの説明を総持寺に割きました。そのあと京浜工業地帯の父、浅野総一郎の銅像を訪ねます。そこで九転十起の総一郎の人生を振り返ります。最後は生麦のキリンビール工場見学です。ここは専門のガイドがついて詳しい説明がありますので、あえて資料は作成しておりません。

総持寺:総持寺は、瑩山紹瑾禅師(けいざんじょうきんぜんじ)によって元亨(げんこう)元年(1321)(現在の石川県輪島市門前町)に開創された寺院でした。以来570余年間、能登の地を拠点として、全国に15,000余の法系寺院を有し、日本最大級の寺院数を誇る曹洞宗の大本山として歩みつづけてきました。しかし、能登の総持寺は、明治30年(1898)4月13日未明、不慮の火災にあい、七堂伽藍を焼失してしまった。一方、神奈川県橘樹郡生見尾村鶴見(現在の横浜市鶴見区鶴見)の成願寺住職加藤海応和尚および同寺の檀家総代や、成願寺の本寺である橘樹郡馬場村の建功寺住職研野宏道和尚などからは、「本山の首都圏移転に際しては、成願寺の境内敷地を献納いたしますという申し出がありました。日本海側に二つの大本山をおくよりも、総持寺本山が太平洋側の首都圏に進出することで曹洞宗もさらに発展するとの意見もあり、移転再建するという大英断がくだされました。

三 門(さんもん): 高さ22m、奥行9m、間口23m、鉄筋コンクリート造では日本最大級を誇る総持寺の三門は、昭和41年(1966) に起工し、昭和44年(1969)4月1日に落慶しました。禅宗建築の七堂伽藍の第一が三門です。寺院は山林にあるべきものとして山号を有したので、山門ともいう

三松閣:三門に向かって右側に大きな切妻造り鉄筋コンクリートの堂宇がみえます。 地上四階、地下二階、9400平方メートルの広さがあり、檀信徒研修道場、各種セレモニーの会場となっており、宿泊施設も整っております。 能登・祖院にあった三本の龍形の松にちなんで「三松閣」と呼ばれています。

香積台:香積とは、香気が充満している世界のことで、『維摩経香積品』が説くところによりますと、そこに住む如来の名でもあるとされております。 転じて、禅門では食事を調理するところの庫院(くいん)、庫裡(くり)を意味します。「庫」は、物を貯える蔵のことです。 正面玄関には、独住第三世・西有穆山禅師が揮毫された「香積台」の扁額が掲げられています。また、中央廊下のつき当たりに、日本最大といわれる木彫の大黒尊天が奉安されています。この像を祀ると開運福徳を授かると信仰されています。

太祖堂:一般的にいわれる開山堂と法堂を兼ねた本堂客殿です。千畳敷の内中外陣と、982坪の地下室を有し、瓦葺形の銅版屋根は53トンに及びます。貫首禅師演法の大道場たるのみならず、諸種法要修行の場とされます。

 この殿堂の内陣の奥には「伝灯院」として、高祖大師・太祖大師・二祖国師・五院開基の尊像及び独住禅師のご真牌が奉安されています。

霊殿:昭和12年(1937)、後醍醐天皇の600年御遠忌を記念して建立されました。

後醍醐天皇は、太祖・瑩山禅師の高い徳風の評判をお聞きになり、信仰上の10か条にのぼる疑問を提示されたところ、禅師は見事にお答えになったことから、元亨2年(1322)、「曹洞出世の道場」の綸旨を下賜され、總持寺は官寺に昇格しました。

御霊殿には、後醍醐天皇の尊像、尊儀をはじめ、後村上天皇、後奈良天皇、後陽成天皇、明治天皇、大正天皇、昭和天皇の各ご尊儀が奉安されています。

浅野家の墓:区画が大きい墓地の中でもひときわ大きい墓地です。往時の繁栄ぶりをうかがわせます。

裕次郎の墓:今でもお花が途絶えるときがなく、命日には多くの人がお参りするようです。

ジョージ・T・ラッド博士の碑日本の穏健派の指導者、伊藤博文初代統監は、何とか腐敗した朝鮮を立て直し、人民の生活を向上発展させようと、一心に思案、努力していました。そんな伊藤統監の招きで、1907年、朝鮮半島を訪れたのが、米国イェール大学教授(哲学、心理学、神学)のジョージ・T・ラッド博士でした。ラッド博士は、1907年3月から5月まで朝鮮半島を旅し、人々に講演をして教育に関する啓蒙活動を行ないながら、その伊藤統監の朝鮮へかける思いに心打たれ、その様子をつぶさに記録しています。

大梵鐘:総持寺参道左側の小高い丘「双眸丘(ふがみがおか)」にある大梵鐘は、直径1.9メートル、高さ3.2メートル、重さ約18.75トン。関東地方では最大級を誇る大梵鐘は、女性の手鏡など一万六千余人の浄財の結晶でもあります。

 図案は、東西南北に、青龍・白虎・宋雀・玄武の四神を配し、連続椰子葉状の文様、蓮弁、葡萄唐草文様など、古今東西の文化を融合させて、壮大な宇宙観、世界統一の大精神をあらわしているといわれます

 ちなみに鎌倉で最大と言われる円覚寺の梵鐘は、1301年(正安3年)の刻銘のあるもので、「洪鐘」(おおがね)と呼ばれています。 直径1.4メートル、高さ2.6メートルで、鎌倉時代の代表的な形態を表していますが、上記梵鐘よりはやや小ぶりです。

総持寺 石原裕次郎の墓
総持寺 ラッド博士の碑
総持寺 大梵鐘
浅野学園 浅野総一郎の像
総一郎像の前で説明するガイド
キリンビールレストラン入口
キリンビール工場
浅野総一郎(1848〜1930)

 一代で浅野財閥を築き上げ、“京浜工業地帯の生みの親”とも“コンクリート王”とも呼ばれる浅野総一郎は、嘉永元(1848)年3月10日、現在の富山県氷見市に医者の長男として生まれ、幼いころから大商人になる夢を抱いていました。石炭・製鉄・造船・機械・セメント・石油などの重工業が日清、日露戦争を機に各地で官民競争しながら、発生しその後、第一次世界大戦の特需を受け、浅野総一郎は一代で浅野財閥を築きます。

キリンビール 横浜工場 

 今回訪問の最後は生麦にあるキリンビール工場です。班に分かれて専門の女性スタッフの案内で工場内の見学をしましました。見学が終わると試飲のサービスがあり、今一番売り出し中の一番搾りをいただきました。記念撮影のパネルの前で写真を撮るとビール瓶が浮き出して見えるというので試してみました。確かに…。

お屋敷と松並木

の町鵠沼を散策

  日 時:平成27年(2015)6月17日

  ガイド:三春・山中 資料作成:三春

  コース:主なルート

 JR藤沢駅〜法照寺〜皇大神宮〜万福寺〜

 空乗寺・大橋重政墓〜緑豊かな遊歩道〜

 松の屋敷林そのままの公園〜旅館「東屋」

 跡〜東屋の家〜美智子皇后思い出の道〜

 下藤ヶ谷公園〜賀来神社〜江ノ電鵠沼駅

最初の訪問地へ向け出発
法照寺
皇大神宮
万福寺
  今回は藤沢市が各地毎に選定したベストテン合計藤沢130景のうち鵠沼地区で選ばれた10景を中心に歩きました。このコースは逗子ボランタリーガイド倶楽部でも初めてのコースだと思います。

法照寺 浄土宗総本山知恩院の直末として直為上人を開山に享保年間(1716?1736)頃に創建されました。この宿庭に宿を求めた旅の僧に地域の人たちはぜひこの地に寺院を建立して欲しいとの請願をしました。旅をする人々の安全と、自らが住むこの地を明るく安らかなところにしたいという地域の人の願いにより創建されました。

皇大神宮:第60代醍醐天皇の御代、奈良時代以来現在の藤沢市の内、藤沢・西富・大鋸・鵠沼・辻堂などの各地を合わせてとなえられていた相模国土甘郷の総社に列せられ,この時以来、相模国土甘郷総社神明宮と称し、あまねく人士の尊崇を集めることとなった。長治元年(1104年)に到って鎌倉権五郎景政が所領の大庭荘を伊勢神宮に御厨として寄進したので大庭荘が大庭御厨と呼ばれるようになってからは、その領内すなわち、いわゆる境川と小出川とに挟まれた広大な伊勢神領大庭御厨総鎮守と定められ更にあつく崇敬されることとなった(社由緒書より)。

万福寺:藤沢市鵠沼にある真宗大谷派(東本願寺系)の寺。僧荒木源海が1245年(寛元3年)に開山・創建したと伝えられる鵠沼最古の寺院です。正式名は鵠沼山 清光院 萬福寺。親鸞の弟子として師に仕えていた源海が1245年(寛元3年)故郷へと志したとき、聖人の形見として、聖徳太子自作といわれる太子像(木像)を譲られた。帰りの途中江の島の岩屋に参篭し、夜の波間に浮遊する光るものを取り上げ、立像の阿弥陀如来を感得したとされています

 その後1528年(享禄元年)北条氏綱は領内の真宗寺院を迫害しました。一揆、が武田とつながるのを恐れ、真宗の寺を浄土宗に改宗させ鎌倉の光明寺の末寺にしようとしたのです。当時の住職空円は断固としてこれを拒否したため空円は断殺され寺は破却されました。寺は、享保3年(1718年)8月に没した良意によって中興されましたが、1897年(明治30年)9月焼失し、以後仮堂ですごしましたが、その後復興し現在に至っています。

 空乗寺:山号は金堀山、真宗高田派の寺寺伝によれば、1677年(延宝5年)に入滅した僧了受が江戸初期に開山・創建したと伝えられる寺院です。本堂裏手墓地の大橋重政の墓は藤沢市の史跡に指定されています。大橋重政(おおはし しげまさ)は、大橋重保の長男。1618年(元和4年)、江戸牛込または鵠沼村で生まれた。幼名は小三郎。幼少時より、右筆であった父の重保に書を学び、10歳の時はじめて将軍家光に目見え、14歳で早くも家光の右筆となりました。1633年、父の重保が病により右筆を辞したため、翌年に大橋家の家督を継いだ。

 鵠沼松が丘公園(松の屋敷林そのままの公園)この地は村川堅固、堅太郎の親子共に東大名誉教授の別荘跡です。親子二代にわたり樹木の大切さを説き、昭和47年に「保存樹木」の指定をうけ、現在は藤沢市の公園となっています。

 東屋跡と茅葺の家:明治後期から昭和初期にかけて多くの文人が来遊した旅館「東屋」は今はそのあとを示す碑だけが残っています。徳富蘆花、川上眉山、江見水蔭  厳谷小波 徳田秋声、与謝野鉄幹・晶子、武林無想庵、斎藤茂吉志賀直哉、大杉 栄、武者小路実篤、谷崎潤一郎、里見 ク、久保田万太郎、宇野浩二、久米正雄、広津和郎、芥川龍之介、佐藤春夫、佐佐木茂索、吉屋信子、大仏次郎、宮本百合が逗留。当時使われていた茅葺屋根の家だけが残っています。

 美智子皇后思い出の道:戦争中美智子皇后は日清清粉の寮があった鵠沼に一時疎開されたことがあります。その後戦況が悪くなり、正田家本家がある館林に移られました。この道は美智子さんが通われたと思われる松並です。

最空乗寺
大橋重政墓
松の屋敷林そのままの公園
旅館「東屋」跡
茅葺屋根の家
美智子皇后思い出の道
賀来神社

緑萌ゆ葉山古道

木古庭周辺を歩く

  日 時:平成27年(2015)5月20日

  ガイド:石井・山中 資料作成:山中

  コース:主なルート

 JR逗子駅〜(バス)〜大楠山登山口〜高橋

 家長屋門〜高祖井戸〜本圓寺〜永嶋家カ

 ヤの木〜不動滝・不動堂〜棚田〜杉山神

 社(昼食)〜猪俣・岡部両将の墓〜大昌寺

 〜新善光寺〜滝の坂バス停(解散)  

 今月は久しぶりに葉山古道を歩きました。青葉の季節、目には優しい季節です、こうして写真を見ても全体にグリーが目立っているように思います。今回訪問のメインの一つ棚田の風景も、すっかり田植えの準備が整い、畔のグリーと引き込まれた水のコントラストが何とも言えない雰囲気を伝えています。満月の夜には田毎の月が楽しめるのでしょうか。

 古東海道 木古庭、上山口、一色の街道は古東海道の一部と言われ、史跡もあり、特に行路の安全を祈願したのか、路傍の石仏が多くあります。「古東海道」とは、奈良時代より都と坂東(箱根より以東)を結ぶ、古代の東海道のことで、「足柄峠」を越えて相模国に入り、鎌倉から三浦半島を縦断して、海を渡り房総半島へ向かいます。古代の官道と言われその一部と伝えられます。三浦半島では披露山へ上り、七曲りより逗子を抜け木古庭を通って衣笠へ抜けて、走水へ向かったと言われております。中世には「鎌倉道」、近世には「浦賀道」と呼ばれました。

 高祖井戸と高橋家長屋門 高祖とは日蓮上人のことです。大楠山登山口バス停の近くの日蓮上人が開いたと伝える鎌倉道高祖坂を上る。高祖井戸は高橋家の長屋門のある高橋家を右に見て、樹木の生い茂る狭くて薄暗い竹藪の奥にあります。

 大明山本圓寺 本圓寺は建長5年(1253)日蓮上人の草創とされ、延慶3年(1310)孫弟子日印上人が開山し、のちに日賢上人が再興しています。蒼々とした杉の樹林と竹林に囲まれたこの地で日蓮上人が法華経のお教えを広めんと道場を定めた霊場であります。故郷を追われ、舟で横須賀の米ヶ浜に上陸して、鎌倉道沿いを布教しながら、木古庭のこの地にも滞在され、その後、目的地の鎌倉入りを果たしました。

 永嶋家のカヤノキ (町重文天然記念物) 下山川に沿って永嶋家の入口に、目通り幹囲285センチ(平成10年頃)という樹形の美しいカヤの木があります。雌の木でこれほどの巨木は珍しいそうです。

 不動の滝 滝の左脇には、水しぶきを浴びて、不動明王が立っています。この地で日蓮上人が法華経のお教えを広めんと道場を定めた霊場であります。元禄年間(1688〜1704)この辺り一帯の水が涸れて村人が困っていたとき、近くの本圓寺の日進上人がお不動様にお題目を唱えたところ、滝の水が再び湧き出したという伝説があります。

不動堂 創建は古く、治承4年(1180)畠山重忠が衣笠城の外祖父三浦大介義明を攻めたとき、ここに布陣して、重忠の守り本尊の「不動明王」を祀り、戦勝を祈願したと言われています。木古庭の鎮守社とされ、現在では本圓寺の境外仏堂となっています。

 棚田(千枚田) 山の斜面を切り開き、段々と続く棚田として知られる上山口の千枚田があります。田植え時期であり、水の張った田圃と緑が重なりあって模様を描いているようです。

明治時代よりこの上山口で代々受け継がれて来た数件の人達がこの棚田に携わっていますが、現在では農家を助けてボランティアグループが田植えから収穫まで作業に汗を流しています。平成12年には皇室の献上米にも選ばれました

 猪俣小平六と岡部六弥太の墓 この二人の武将は武蔵七党の一つ猪俣の武将で、源平一の谷の合戦で平氏と戦いました。猪俣は平氏の侍大将越中次郎兵衛盛俊に組み伏せられ、また岡部六弥太は敵将薩摩守忠度にねじ伏せられましたが、武士にあるまじき卑怯な手を使い、相手を打ち取りました。侍大将盛俊や清盛の弟の忠度を討ち取ったという大手柄を立てながらも、その討ち取り方を恥じ悔やみ、郷里の武蔵に戻れず、懺悔の日々をここ葉山で過ごしたと伝えられています。

八幡山法林院大昌寺 浄土宗 この山腹は、鎌倉時代、三浦義澄の次男山口次郎有綱が居を構えたといわれています。南北朝初期、暦応年中(1338〜1341)に山口郷領主戸塚八郎衛門宗達(富塚善四郎の祖と思われる)が年老いたので入道して遁世の身となり、自家持分の地に室を構えました。宗達は、ここに本尊、阿弥陀如来を安置し、さらに境内に八幡宮を勧進して、日夜不断称名三昧に過ごしたと言われています。故に、宗達をもって開基とします。その後草庵は衰微しますが、戦国時代初期、天文14年(1545)3月、源誉伝秀上人が草庵の地に大昌寺を建立しました。 

 不捨山新善光寺 浄土宗 「葉山花の寺」と愛称されて、背後の常緑樹林は町指定の天然記念物です。すり減って苔むした石段を八重椿の樹が取り囲み、石段の中腹には室町中期に造られた唐様手法の風情を色濃く残す四脚門(県重要文化財)があります。山門にかかる扁額には、日本画家の伊東深水画伯(1898〜1972)の手による“不捨山”の書が更に趣を添えています。鎌倉時代の建仁年間(1201〜1204)源頼朝の御台所、二位の尼が信州の善光寺如来を名越に招請したのが始まりと言われています。時が流れて戦国の世となり、うち続く戦火に悩んだ第七世顕誉蜜道が、弘治2年(1556)、現在地に移転し中興しました。四脚門もその時移築しています。

 今回のこのコースは逗子ボランタリーガイド倶楽部としても過去に何回か歩いています。しかしそれにも関わらず、リピーターの方、初めての方を含めて大勢の人にご参加いただきました。このコースの人気の高さがわかります。新しいコースを開発するのも必要ですが、過去に歩いたコースで人気のあるコースを歩くというのも、参加者の皆さんに満足していただけるということがわかりました。

 

高橋家長屋門
今回のルートマップ
高祖井戸
本圓寺 永嶋家のカヤノキ
不動滝 不動堂
大沢の庚申塔(葉山町重文)
棚田
杉山神社
猪俣・岡部両将の墓
新善光寺
大昌寺

陽春の

城ケ島灯台周辺を遊歩

  日 時:平成27年(2015)4月16日

  ガイド:石井・橋本 資料作成:橋本

  コース:主なルート

 京急三崎口駅〜バス城ケ島〜白秋記念館

 ・北原白秋碑〜城ケ島灯台〜城ケ島大橋

 歩行〜異人館跡〜大椿寺〜本瑞寺〜海南

 神社〜最福寺〜見桃寺〜歌舞島解散

 今回は城ケ島の灯台を中心にその周辺を歩きました。ご存知の通り城ケ島やその周辺には北原白秋縁の場所が数多くみられます。今回の旅のテーマは北原白秋の足跡をたどるといっても良いかもしれません。

 城ケ島大橋を渡るとすぐに白秋記念館があります。白秋と言えば何といっても歌曲「城ケ島の雨」が有名です。島村抱月に依頼され書いたこの詩が生まれた時期は、白秋にとっては、自身の訴訟問題や実家の破産などで精神的にも経済的にもどん底の時期だったといえるでしょう。ある意味ではじっくり思いを巡らし詩を書くといった余裕がなかったかもしれません。焦れば焦るほど作詞は難しくなっていきました。そんな時、雨に煙る城ケ島の不思議な色合い(利休ねずみ)を見たとき、突然詩に対するひらめきが湧き、開き直った気持ちになって作られたのが「城ケ島の雨」とのことです。白秋にとってこの詩は初めて曲が付いた詩です。後にレコードが発売されると大評判となり、白秋とともに城ケ島の名も全国的に有名になったとのことです。

 城ケ島の雨   作詞 北原白秋          作曲 梁田 貞

  雨はふるふる、城ケ島の磯に、

     利休ねずみの雨がふる       

 城ケ島の白秋碑には上記の「城ケ島の雨」の一節が刻まれています。

 白秋が自ら記念碑の除幕式に参列したのはこの城ケ島の碑と見桃寺の碑だけだと言われています。

 城ケ島の白秋記念館からは、天気が良ければ遥か海のかなたにくっきりとした富士山が見られます。また今でも通り矢の端付近では行きかう船も多いです。

 城ケ島にはウミウの産卵地があり、大切に保護されています。毎年6月頃まではウミウの姿が尾根道から見下ろせます。また、「馬の背」の景色も絶景です。

 城ケ島灯台は明治3年(1870)横須賀製鉄所首長フランス人ヴェルニーにより洋式灯台として設置点灯しました。このレンガ造円形、灯高基礎上5.76mの灯台は、大正12年(1823)9月1日の関東大震災によって、一瞬に建物の基礎から倒壊し、大正15年(1926)8月1日に改築されたのが現在の灯台です。

 異人館は白秋が逗留していたところです。ここからは城ケ島がまっ正面に見え、歌に出てくる「通り矢の端」が見通せます。

 三崎には源頼朝が作ったとされる御所が三つありました。椿があふれる椿の御所、桜の御所、それに桃の御所です。それぞれ今は大椿寺、本瑞寺、見桃寺となっております。その中でも見桃寺には白秋の碑があります。彼はこのお寺に住んでいたことがあります。この碑は白秋が唯一自筆で建立したといわれています。

 見桃寺の歌碑

「寂しさに秋成が書読みさして 

      庭に出でたり白菊の花」

 白秋はこの碑の除幕式に自ら参列しましたが、その丁度1年後の昭和17年11月2日、57歳で世を去りました。

 海南神社は「食の神」のお祭りが有名です。今年は5月17日に行われるようです。境内銀杏の木が立派です。鎌倉の八幡様の銀杏の木が倒れてしまったので、この近辺では1,2を争う立派なものです。

 この童謡「歌の町」は、昭和22年に制定された「児童福祉法」施行を記念するために東京都が作詞家の勝承夫(よしお)に依頼したものです。

 昭和20年(1945年)に太平洋戦争は終わったものの、その2年後の日本では、戦争で家族を失い、あるいは家が焼けて住むところもない人々が多く、その中には戦争で親を失った戦災孤児も多くいました。当時、こうした孤児たちを救い、明るい社会を築くためには法律を作るだけでなく、「こども」達の心に明るさを取り戻すためには、何といっても、明るい歌が良いと考えられたのです。

 依頼を受けた作詩家(詩人)の勝は、どこかに明るい「歌の町」はないかと思っていた。親友であった作曲家の小村三千三(みちみ)は自分が子供の頃に暮らしていた出身地の三浦三崎に彼を誘い、その結果、三崎の「こども」達を心に浮かべ、三崎を舞台にしたこの「歌の町」の作詞が完成したということです。

歌 の 町

作詞:勝 承夫、作曲:小村三千三

  よい子が住んでる よい町は

  楽しい楽しい 歌の町

  花屋は ちょきちょき ちょっきんな

  かじ屋は かちかち かっちんな

  よい子が集まる よいところ

  楽しい楽しい 歌の町

  雀は ちゅんちゅん ちゅんちゅくちゅん

  緋鯉(ひごい)は ぱくぱく ぱっくりこ

今月のルートマップ
念館入口
北原白秋碑
白秋記念館より富士山を望む
通り矢付近の海岸
城ケ島のウミウ(海鵜)産卵地
馬の背と城ケ島の海岸
城ケ島灯台
異人館跡
椿の御所 大椿寺
桜の御所 本瑞寺
海南神社
見桃寺の白秋碑
大イチョウ 海南神社
歌の町」の碑

逗子旧別荘地を歩く

日 時:平成27年(2015)3月18日

ガイド:後藤・山中 資料作成:後藤

コース:主なルート

 JR逗子駅〜(1)東郷邸〜(2)小野別荘跡

 (開成)〜(3)牧野別荘(松汀園)〜(4)正力

 別荘〜(5A)岩倉公爵別荘〜逗子海岸〜

  (13)ワーミング邸跡(渚ホテル→夢庵)〜

 (20)東伏見宮邸跡(大倉別荘―臨海壮)〜

 (22)周布邸(国鉄海の家―マンション)〜

 (24)成瀬別荘(伊藤家別荘・黒門)〜

 (25)長島邸〜(30)福原別荘〜(33)養神亭〜

 (46)徳川家達別荘(郷土資料館)〜

 (50)脇村邸 (逗子市保有保存)〜

 (36)大西邸・解散

正力別荘 裏は工事中
海岸右手の山から逗子海岸を見る
マンションに入れ替わった海岸
海から山を見て説明を聞く
今月のルートマップ
逗子の旧別荘地

逗子の旧別荘地

(1)
東郷別荘
(2) 小野別荘―逗子開成学園
(3) 牧野別荘―松汀園
(4) 正力別荘
(5) 千葉吾一 邸
(6) レーンホルム邸―岸別荘NTT寮ーマンション
(7) 野沢別荘―大倉別荘―マリンボックス
(8) マクベン邸―東京海上火災海の家―シサイド ハイツ
(9) マーシャル亭―三菱銀行寮―大雄建設建売住宅
(10) 内山別荘
(11) ギルバード邸
(12) ラウダー邸―日本興業寮―デアコート
(13) ワーミング邸―なぎさホテルー夢庵
(14) スチュウワートーシーブランテ邸-山岸―増田邸